Last Update : 2000.9.1

アラスカへ行った話です2000








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目次

1.はじめに
2.アラスカについて...1
3.アラスカについて...2
4.アラスカについて...3
5.ツアーのコース
6.暖かいアラスカ寒いアラスカ
7.オーロラ観察...その1
8.レンタカーの話し...1
9.レンタカーの話し...2
10.オーロラ観察...その2
11.携帯電話
12.自然科学博物館
13.星野道夫さん
14.オーロラ観察...その3
15.アラスカ(アメリカ)の楽しみ
16.タイガの森
17.マッキンリー山
18.オーロラ観察...その4
19.アラスカからインターネット
20.ホテルのお話
21.トナカイのステーキ
22.アラスカへのおみやげ
23.トナカイのステーキ以外
24.アメリカのテクノロジー
25.オーロラ観察...その5
26.サンタクロースに会いました
27.犬ゾリの話し...1
28.犬ゾリの話し...2
29.オーロラ撮影...1
30.オーロラ撮影...2
31.オーロラの見れない夜に
32.唐辛子と核兵器
33.アラスカのお土産
34.アラスカ最後の日
35.オーロラ観察...その6
36.日本へ向けて
37.あとがき





はじめに

 2000年、ミレニアムな年に再び、アラスカの大地を踏む事ができました。

 すでに、アラスカには3度目の旅行となります。  滞在期間は2000年2月5日出発〜2月14日帰国の7泊9日でした。 滞在した場所は相変わらずフェアバンクスという街です。

 たった1週間ほどの滞在でしたが、再び新たな発見、新たな感動を得る事が できました。 また好評の「アラスカに行ったお話です1998」に続く第2段ということで、 書いてみます。

 旅行の話と言えば、宿、食事、何をしたか...が中心ですがそれ以外にも 私の勉強したアラスカのこと、素晴らしい自然の事、そして私の旅の目的の オーロラの話しなど、特に今回の旅行ではオーロラを何度も何度も見れた事が 印象でした。

 それから、旅行中だいたい天気も良く、ある昼さがりにどこまでも続くタイガの 森をドライブできた事や、また昨年に比べて非常に暖かいアラスカであった事。 などなど、これからちょっとだけおつき合いいただければと思います。

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アラスカについて...1

 1998年版で紹介しきれなかった事をまとめてみますね。

 アラスカは、アメリカの中でもっとも日本に近い州です。 それは、ハワイよりも近いです。 「地球の歩き方 アラスカ編」によると東京〜アンカレジまで5568kmで 東京〜ハワイより550km近いようです。
 冬は雪や氷に閉ざされた所だとは容易に想像できるかもしれませんが、 夏はというと、大部分が緑の森に覆われた「タイガ気候」で、 本当に緑が眩しいくらいの大地となります。 気温もフェアバンクスでは冬はマイナス50度になることもあれば、 夏は20度を超えることもしょっちゅうあります。

 また、面積ではアメリカで最大の州でありながら、人口では最低の州です。 アラスカの面積は全米の1/5ほどをしめます。これは日本の約4倍にあたります。 人口はアラスカ州全体で約55万人、アンカレジで約25万人、フェバンクス8万人 となっています。

 「地球に残された最後の大自然」とも言われていますが、 まさにそのとおりだと思います。 アラスカの自然保護のための努力も大変ですが、この自然を守ろうという 考え方を知るに連れ、自分達の生活がいかに地球を消費しているか考え させられます。

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アラスカについて...2

 アラスカの歴史を紹介してみますね。

 「アラスカ」という言葉は、アラスカの先住民であるアリュート族の言葉で 「(東方の)広大な陸地」を意味する言葉から来ています。

 1741年にロシアの探検家ベーリングの一行は、アジア大陸とアメリカ大陸の あいだにベーリング海峡が存在し、アメリカ大陸の再北西端となるアラスカという 広大な地を発見しました。
(まぁ発見といってもヨーロッパ中心の世界史から見ればの話で、現地に住んでいる人は それよりもずっとずっと以前から知っている訳ですが...)  そしてこの場所でとれるラッコやアザラシの毛皮がロシアに紹介されると、 毛皮を求めてロシアの植民地となりました。

 しかし、乱獲による毛皮資源の枯渇、ロシアの経済危機などより、 1867年(私の生まれる101年前)にロシアはアラスカのこの地を、 720万ドル(8億円=1ドルが110円なら)でアメリカに売りました。  その当時の国務長官スワードが決断したこの「買い物」は、でかい冷蔵庫を 買ったとバカにされる始末でした...

 やがてその約30年後の1901年にカナダ国境近くのクロンダイク地方で金が発見され、 「クロンダイク・ゴールドラッシュ」が始まります。しかし金が取れたのは最初のうちだけで、 すぐに金はあまり採れなくなってしまいました。

 やがて20世紀も半ばにさしかかり、第2次世界大戦が終わる頃、東西の冷戦が始まり、 アラスカはアメリカ本土で一番ソ連に近い場所として、軍事上の重要拠点と なります。この基地となった場所がフェアバンクスです。

 冷戦の緊張が緩むなか、1968年(私の生れた年)、北極海で、油田が発見 されます。環境保護か油田開発か議論されましたが、やがて来るオイルショックにより、 この油田が採掘されるようになります。 現在、アメリカの石油の消費量のうち、アラスカの油田から採られら石油がかなり利用 されています。フェアバンクス郊外にも北極海から大平洋まで石油を送るパイプラインが 現在でも刻々と石油を送り続けています。

 アラスカの油田についてはスティーブン・セガール主演の映画「沈黙の要塞」 では、油田による環境破壊をとめるために、油田を壊してしまうという話しに なっていますね。

 と、日本とは全く違う歴史を歩んできたアラスカですが、現在でも自然が 残されていることが、アラスカの歴史の中で変わらないものの一つではないかと思いま。

 参考文献:参考文献:地球の歩き方 アラスカ編

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アラスカについて...3

 アラスカの人と文化

 アラスカには約1万3千年前の氷河期にユーラシア大陸からベーリング地方をあるいて 渡って行った古モンゴロイド系狩猟民族であるアメリカ・インディアンの末裔がいます。 彼等はエスキモーでなくアラスカ・インディアンとよび、アラスカの中央部に 住んでいます。トナカイなどを捕って暮らしています。
 また、やがて彼等はアラスカに留まるだけでなく、南米まで進出して行った事は、 みなさんの御承知のとおりです。

 そして、氷河がとけベーリングとアラスカの間が海になり、今から約3千年前になると、 カヤック等でベーリング海峡を島伝いにユーラシアから渡った新モンゴロイド系狩猟民族が エスキモーと呼ばれています。彼らは、主に沿岸部で暮らしています。

 つまりアメリカ大陸を発見したのは、コロンブスではなくアメリカ・インディアンで あるというわけけです。

 ところで、エスキモーの言葉の由来はカナダのインディアンの部族の一つ、 クリー族の言葉で「生肉を食べる輩」という蔑称であるとのことから、 近年「イヌイット」と呼びかえています。以後「イヌイット」と呼ぶことにします。 また「インディアン」もコロンブスがインドだと思い込み、インド人ということで 「インディアン」とよんでいるのですが、近年ではアメリカ先住民という意味で 「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶことが多くなってきました。 同じく「アラスカ・ネイティブ・アメリカン」ということになります。

 イヌイット(エスキモー)と言えば、半球形の氷の家「イグルー」を想像 されるかもしれませんが、氷の家を作るのはカナダ〜グリーンランドのイヌイットで、 アラスカのイヌイットは動物の毛皮などで家を作ります。
 ところが、現在、イヌイット、ネイティブともその多くが、アメリカ政府の 定住政策で、ちゃんと基礎と壁と屋根のある、そして暖房の効いた家に住み、 服を着て、ハンバーガーを食べ、ガソリンを消費する車にのっている。 そして子供達は学校へ行き、会社に就職する...という生活になってきています。 人々は便利な生活になれてくれると、後戻りは難しいようです。

 民族の地位を高めるためには若い人や子供に教育を受けさせるのも一つの方法ですが、 この教育というのは、やはり画一的になりやすく、民族のアイデンティティの確保と 教育レベルの確保とは相反するものであり、例えば英語しか話せないという人も 多くなってきています。
 そのため、学校では、英語と自分達の言葉をかならす並記するよう配慮してある そうです。

 日本では、学校に行き就職する、と言う事があたりまえだと思われている事が、 アラスカではいろいろと問題になっていると言う訳です。
 民族のアイデンティティを維持して行くのは難しいのだと感じます。

 また、日本では「村起こし」と称して経済活動におもむきを置いた自然破壊を伴う 観光の開発が基本です。 例えば特産とか名産とか称して、実はやっていることは、日本全国どこも 似たような、あるいは画一的な商品の開発をしている、施設の整備をする... といった事が現状ではないでしょうか。  もし、アラスカで「日本的な村起こし」をすれば、 「民族のアイデンティティの喪失と自然破壊」そのものであり、 アラスカに求められているのは、「旧来の生活」を守り伝えていくこと、 自然をむやみに破壊しないということなんだなぁ、 ということを事を今回の旅行で勉強しました。

 参考文献:参考文献:地球の歩き方 アラスカ編

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ツアーのコース

 みなさんの気になる話で、ツアーコースなどなど紹介してみたいと思います。

 2000年は、というか今年も3年連続で同じコースでした。 大阪の関西空港から出発して、シアトル経由フェアバンクス往復の順番でした。 飛行機代は11万円と消費税、それから宿代は1週間で3万円でした。 これに追加して、レンタカー代6万円と食費とお土産代もろもろ込みで25万円といったところです。

 今回のツアーはHISで頼みましたが、ちょっとチケットを取るのがおくれて、 関空〜シアトル〜アンカレジ〜フェアバンクスのコースになりました。  当初の希望は岡山〜ソウル(大韓航空)〜アンカレジ〜フェアバンクスでした。 どうしても関空〜アンカレジ(大韓航空)がとれなくて、シアトル経由になりました。 帰りはフェアバンクスからシアトルまで直行便、そして関西空港へ着くというコースです。

 ところが、私が関西空港のHISの窓口でチェックインしていると、 隣の近畿日本ツーリリストの窓口で同じくフェアバンクスへいかれる おばちゃま2名がいました。 チェックインを済ましてそのおばちゃまとちょっとだけ話をしてみると、 なんとソウル〜アンカレジ(大韓航空)とのこと、そのおばちゃまたちはシアトル経由で 行きたいのに、ツアーの関係で大韓航空になってしまった事、 成田〜ソウル〜アンカレジ〜フェアバンクスでは40名くらいいるので、 ソウルで合流する事、など聞きました。  フェアバンクスの到着時刻では、ソウル周りのほうが、 乗り継ぎの関係で昼12時ごろにフェアバンクスに着くのに対して シアトル経由だと、午後6時で日没以後になってしまう訳です。

 おもわず、チケットを交換したかったのですが、それはやぱり無理ですよね...

2000.2.5
 広島県三次市を朝5時に出発して、マイカーで福山市に行き、そこからバスで大阪の難波へ、 そしてまたバスで関西空港へ夕方に関西空港を出発しました。  難波からバスで関空へ行くと、880円です。関空特急「はるか」と同じ時間の約50分で着きます。 もちろん値段は安いです。午後5時ごろ飛行機は無事に大阪を出発し、大平洋上空を飛びはじめました。 長い旅は始まりました...

 私は飛行機は窓側が大好きですので、いつものとおり窓側で、今年は北の空が みえるA列へ座りました。98年99年は南側の席で、冬の星座、特にカノープス という南の星を地平線上に眺めながらのフライトでしたが、2000年は、もしかしてオーロラが 見えるかもという期待を持ちつつ、乗りましたが、それらしい物は見えず、やがて大平洋の 夜明けを見ながら、朝シアトルへ着きました。

 次の飛行機でアンカレジを経由してフェアバンクスへ向かいます。 シアトルからアンカレジまでふたたび1000キロ以上も飛行に乗ります。 ところがこれは日本方面へあとがえりするのです。これが結構時間がかかります。

 飛行機は昼に出発するのですが、乗り継ぎまでの間は空港内でのんびり待ちます。 シアトルでは、Laptoplaneというビジネスマンのためのワーキングコーナーのような ところがあり、パソコンやらいろいろ用意してあってインターネットもできるようになっています。 ここで時間をつぶし、そしてシアトル空港内にある「うどん」食べたり、そして今回初めて買った 星野道夫さんの作品を読みながら時間をすごしました。

 アンカレジでは約1時間ほど飛行機の荷物の詰め替えなどで、ちょっと休憩です。 外の天気はどんよりとした感じで今にも雨か雪が降りそうでしたが、フェアバンクスの天気は 出発前にチェックした時には晴れ時々曇りでしたのて期待していました。やがてアンカレジを 出発し、いよいよフェアバンクスへ向かって最後のフライトです。アラスカ山脈を超えるころ 天気は雲一つない状態になってきました。といっても飛行機の上だけでなく下の地面もはっきり 見えます。ということは...快晴!いよいよ1年待った期待のオーロラに今晩、会えるかも...

フェアバンクスには午後6時に着きました。日本時間では2月6日お昼12時です。 もう出発して1日と6時間が経過しましたが。外の天気のおかげで疲れも吹き飛んで、すかっり 元気になりました。

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暖かいアラスカ寒いアラスカ

 暖かいアラスカ

 今年(2000年)のアラスカ旅行で一番意外だったのが、暖かいということです。 1998年も暖かかったのですが、それ以上に暖かかったです。 まずは、温度から...

         最 高   最 低
   2/ 5   ー5℃  ー11℃
   2/ 6   ー7℃  ー14℃
   2/ 7  ー10℃  ー17℃
   2/ 8   ー9℃  ー17℃
   2/ 9  ー16℃  ー22℃
   2/10   ー8℃  ー17℃
   2/11   ー8℃  ー17℃
   2/12   ー8℃  ー11℃
   2/13   ー9℃  ー18℃

という温度です。最低気温は−15℃前後ですが、最高が−4℃とか言う日がありました。

暖かいと良い事があります
・やっぱり動き回るのに楽です。
   外が寒いとやっぱり、辛いです。
・犬ゾリが元気
  今年は犬ゾリに乗りませんでしたが、この話は、またいずれ
・カメラへのダメージが少ない
 オーロラをとるために外気へカメラやレンズをさらすわけですが、 温度が低いと電池の消耗が激しい、フィルムが凍って切れてしまう、 レンズが凍り付くなど心配もありますが、−10℃程度であれば、大丈夫です。

良くない事
・氷がとける...
 といういことで、フェアバンクス名物の氷の彫刻大会が今年は中止です。 と言う訳で、今年はちょっとしか見れませんでした。

 道路の氷が日中の日ざしで融けてしまい、夜に凍ります。これがとてもよく滑るのです。 昨年は、雪が少ないけれど、気温が低いために、滑るという感じはあまりなかったですが、 今年は決まった場所で、滑りやすいという感じをうけました。

 期待したダイヤモンドダスト、バナナで釘を打つ、なんてのは、もちろんだめでした。

 寒いアラスカ

 1999年はというと...非常に寒い経験をしました。
 ダイヤモンドダストも見れたりと寒かったです
        最 高   最 低
   1/20  ー36℃   ー40℃
   1/21  ー32℃   ー41℃
   1/22   ー7℃   ー37℃
   1/23   ー3℃    ー9℃
   1/24   ー7℃   ー15℃
   1/25   ー9℃   ー32℃
 1日でものすごい気温の変動もありますが、寒い..という印象の1999年ツアーでした。 最悪だったのは、犬ゾリにのろうと思ったのですが、 寒すぎて犬の活動ができないという事でした。

気温データは Weather Underground: Fairbanks, Alaska Forecast
http://www.wunderground.com/US/AK/Fairbanks.html
の過去の天気の記録を参考にしました。

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オーロラ観察...その1

 2000.2.5 夕方6時少し前
 どんよりと曇ったアンカレジを出発した飛行機は1時間のフライトの のちフェアバンクスへと降下しはじめていました。
 フェアバンクに近付きはじめた頃から、なぜか雲が消え去り、すっかりとオーロラ日和? となっていました。
 飛行機には、相当数の日本人が乗っており、その人たちは皆ツアー会社などの 出迎えがありましたが、私はただひとり、誰の出迎えもありません。 今回はいきなりレンタカーで行動し、自分でホテルへ行く予定にしており、 空港内のレンタカーのカウンターですぐにチェックアウトをして、 荷物を載せて出発しました。(レンタカーを借りる時はチェックアウトと言います) 時刻は18:30分、目的地は昨年の98年1月にも利用したフェアバンクスホテル。 昨年の通った道を一生懸命思い出しながら車を進めました。

 少し走り続けたところで、周囲の様子が変だな...と思いました空港から1-2分で 街にはいるのに、街がないのです...
 どうやらどこかで、まちがった感じです。道路は片側2車線のハイウエイです。 中央分離帯がずーっと続く中、どこかでUターンしなければ...と思いながら走り続けました。 路肩に止まれるような場所を見つけて、自分の進んでいる方向を確かめるために、 星を見ようと車の窓の外を見た時です。
 北の空、北斗七星の左に、ゆらゆらとうごめくオーロラが出ているではありませんか!! そのまま少し走ったところで、Uターンできるところを見つけUターンして、すぐ車を止めて、 やっとここで落ち着いてオーロラを眺めました。
 そういえば、カメラの準備もできていない... そう思いながら三脚にカメラを固定してシャッターを30秒に合わせて、2回切りました。
 どたばたしながらも到着してすぐにオーロラを見れるなんて、 日頃の行いのたまものかなぁ...なんて思いながら眺めていました。

 ふと我に返り、時計の針を見るといつのまにか19時を過ぎていました。 20時までにホテルと携帯電話屋へ行かなければ... ゆっくり見ていたかったのですが、自分の今いる場所も把握でき、ホテルへの道も分かったので 先へと車を進めました。

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レンタカーの話し...1

 アラスカで借りたレンタカーは、昨年に引き続き、フォードのコンチュラ2000ccの 4ドアセダンです。マツダのカペラぐらいのクラスといたっところかな。

 レンタルは2/5の夕方〜2/12深夜とうことで7日(week)+1日でした。 しかし、「+1日」という部分は、実は6時間分くらいしかなかったのですが、 時間制の料金がないので数時間でも1日分取られます。 とはいえ、アメリカはレンタカーの料金そのものが安いので、この8日分で、 対人対物の保険などに目一杯入って、全部で530ドルでした。つまり1日当たり67ドル ということになります。日本で2000ccのセダンのレンタカーを24時間レンタルすると.... こんな値段ではないですよね、ということで、アメリカのレンタカーは大好きです。

 走行は...下のとおり

 OMは車のオドメータ(単位はマイル)
 (TM)は私の通算走行で、トリップメータ2/5に借りたときに0にしてあります。
 Dayは1日あたりの走行距離 毎日うろうろしていますね....

    O M (T M) Day
   start 256 (000) ←ほととんど新車ですね。おろしてまだ256マイルですよ
   2/05 336 (080) 80
   2/06 388 (130) 52 
   2/07 478 (220) 90 給油9.80[d] 6.673gal
   2/08 507 (248) 29
   2/09 551 (295) 44
   2/10 686 (355) 135
   2/11 759 (503) 73 給油10.0[d] 6.949gal
   2/12 807 (551) 48 給油1.75[d] 1.225gal
   --------------------------------------------    計     551miles       21.55galon
         886Km        81.6リットル=>燃費10.8km/l

 1週間で551マイル=886km走ったことになります。毎日100キロ以上?? そんなに走った気はしないのですが...燃費はリッター10kmくらいかなといったところ。 しかし,ガソリンの単価はリッターあたり30円ほど、 つまり1/3くらいですので、やっぱり安上がりです。

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レンタカーの話し...2

 レンタカーにはクルーズコントロールも装備され,アラスカのハイウエイを のんびりと走るのにとっても楽チンです。時速55マイルにセットして走ります。

 今回の車で最後まで理解できなかったのは、ドアロックです。閉める時に失敗しそうでした。 というのも、電動集中ロックのはずなのに、車を降りる時にドアを閉めて外から 運転席のロックをしても、他の3つのドアはロックになりません。 全部ロックするためには、おりる前に集中ロックスイッチを押します。 ところが、このまま運転席のドアをしめると、ノブを引いていないにもかかわらず、 運転席もロックされます。うっかりするとキー・イン・ロックになりそうです。

 多分、故障というか誤作動していたのではなかと思います。

 ホテルの前の広い駐車場が私の駐車スペースでしたが、火曜日の朝に起きてみると、 ワイパーに紙切れが...... 「ここは私的に契約しているスペースです。すぐに移動させて下さい」と書いてあるかみ切れでした。 ホテルの人に事情を話すと、ホテルの裏の駐車場を確保してくれました。 しかし、そこは一番右側のスペースでした。

 ついうっかり右に幅寄せせずに止めていると、ホテルの人が「リルビ」といってきます(笑) もうちょっと寄せて下さいね、とよく言われました。

 車を運転している間は緊張しているので、走行車線もきちんとまもり、 右左折もちゃんと進路を間違えずに曲がり、ウインカーもワイパーも間違えずに走行します。 しかし、慣れというか、安心する瞬間というのは恐いもので、最後に駐車する時に、 右への幅寄せを「うっかり」せずに、適当にとめててしまうわけです。

 アラスカでは、ずっと安全運転でした


ヲなかなか、かわいい車です。

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オーロラ観察...その2

 2000.2.5
 ホテルにチェックインして、夕御飯や飲料水を買いにスーパーへ言った後、 最初のオーロラ観察に出かけました。 といっても、出かける前にカメラの準備です。カイロに火を入れたり、 フィルムのセットをしたり...ところが、あっというまに22時になってしまいました。  ホテルの外に出たら時計はもう23時、頭の上には明るいオーロラが広がっています。

 これはいけん...と思いながら、昨年、一昨年とオーロラを見た「スキー場」へと 向かって車を進めました。 道の方は、昨年何度も通ったので、道のポイントを覚えているのと、 最初の飛行場からの運転と違ってアメリカ運転も落ち着いてきたので、 楽に進む事が出来ました。

 片道約30マイルのスキー場への道を進んで行きました。この道が「北」へと 進路を取る道で、目の前のオーロラはどんどん明るくなって来ています。 しかしハイウエイの道であり、途中で停車するのは非常に危険であり、 よりオーロラの見えやすいところで止めたい..とうことでスキー場へと頑張って行きました。

 それでも、オーロラはどんどん動く訳で、頭の上を光のカーテンがいったりきたり、 車も道なりに右に左に向きをかえる中、予測不能な不規則なリズムと相まって、 窓ガラス越しの幻想的な光をみていると、まるで自分がオーロラの中を 運転しているような錯覚に陥ります。

 やがて、スキー場へついた頃には、時計の針は24時前になっていました。 しかし最初の夜のオーロラショーは終わり頃になっていました。  カメラをセットしましたが、どんどんオーロラは暗くなって行きます。 数枚撮影したところで、雲が広がって来たので、この夜のオーロラ観察は25時少し前に 切り上げてホテルへと帰りました。

 しかし、スタートからオーロラ三昧....というこの旅は、始まったばかりです。

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携帯電話

 2000.2.5
 フェアバンクス到着のとき、道に迷いながら、夕暮れのオーロラもそこそこにホテルへ 急いだのには訳があります。 今回は、ホテルの人のすすめもあり、現地でレンタル携帯電話を借りるようにしていました。 一人で極寒の地でオーロラを見るのですが、万が一のことがあれば、 凍死も無い訳ではありません。 3度目のアラスカとは言え、事故は気をゆるめた時に起こるものです。 そのために、携帯電話を借りることにしました。

 この携帯ショップが、日曜日は休みで、土曜日の20時に店を閉めるとこの事で、 それまでになんとかお店まで行かねばなりません。 飛行機の到着が18時で2時間しかありません。 しかも、その店の場所はホテルで聞かないとわからないでの、 ホテルのチェックインを急いだのです。

 チェックインもそこそこで携帯電話のお店の場所を聞いたのですが、 場所が今一つわかりません。結局ホテルの人に連れて行ってもらいました。

 料金は、プリペイド(前料金)式ということで最初に175ドルをお店に払います。 返却する際に、利用料金等を引いてお金を返してくれるということでした。 1週間後に行って精算してみると、1週間の基本料金39ドルと30分の通話で30ドル   39+30=69  175ー69=106ドルを返してもらいました。

 日本で借りて行くと、1日1000円で、宅急便でのやりとりとなり、その分、 日数が無駄に加算される。 そして、日本から電話がかかってくると実は日本→アメリカの国際料金は自分もちで、 あとから高額で請求されます。アメリカ→日本も1分1ドルではありません。
 今回の旅行のパターンで、日本で借りていれば、2〜3万円は必要だったのではないかと思います。

 携帯電話の番号なのですが、これが不思議な事に、フェアバンクスの街の普通の電話番号と 同じなのです。 つまり、市内からかける場合には 460ー**** という番号でつながります。 日本では必ず11桁必要ですよね。 日本からはNTTコム経由で 0033ー1ー907ー460ー**** またはKDD経由で001ー1ー907ー460ー**** ということになります。  この番号のシステムはちょっと不思議でした。

 日本への電話は、別に買っていたKDDの国際電話カードで電話しました。 これを利用して私の借りた携帯でアラスカから日本の携帯へも、 割と安い料金で電話をする事が出来ました。 しかもクリアな音だったの驚きました。

 携帯電話はユニデン(uniden)というメーカの電話で、その大きさは、 日本の携帯電話よりかなり大きめでした。 どのくらい大きいかと言えば、アメリカの携帯が350ccのジュース缶サイズくらいだとすれば、 日本のは250ccのジュース缶サイズとでもいいましょうか...、 まぁ、重いです250グラムはあったように思います。

 大きくて重く、電池がその重みの原因になっていたようでしたが、 すぐに電池がなくなるため、たえず充電用のアダプターをつないでおく必要がありました。 部屋ではACアダプター、車ではシガレットソケットのチャージャーをつないでいました。  重くて、持続時間が短い...電池はニッカドのようでした。 朝に充電して、深夜にはなくなっていました。

 携帯のサイズといい、電池のサイズ重さといい、この分野では日本がかなり 進んでいるなぁと感じました。あとは通話方式がなんとかなれば、いいのに.... ドコモさんがんばって。

私が借りた携帯を紹介しているページを見つけました。 
http://www.uniden.com/docs/product/prdetail.cfm?product=PCD2000A
Ultra compact & Lightweight と紹介してあったり、たったの8.5オンス(230グラム)だったり、 連続通話70分とかすごいです。
 アメリカでコードレス電話と言えばUnidenだそうです
www.uniden.co.jp

ヲ黒い方がレンタルした電話です。 小さい方は、私の携帯P501i(iModeで、日本ではけっこう大きいサイズです)

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自然科学博物館

 2000.2.6
 アラスカ大学フェアバンクス校というところに「アラスカ大学博物館」 というのがあります。2年前から行きたいなぁと思っていましたが、 今回この博物館を訪れることができました。
 アラスカ大学フェアバンクス校というのは、フェアバンクスの町の北西にある、 市内を一望できるような高台にあります。
 ここの中の博物館は、「アラスカで一番○○な」が付くような物が いっぱい展示されていて、アラスカの自然と歴史と文化を勉強するには もってこいの場所です。

  http://zorba.uafadm.alaska.edu/museum/

 入り口には巨大なヒグマ(BrownBear)のはく製が展示してあります。 背丈は私の2倍もあろうかというものすごい大きさです。約3mの高さかな。 こんなのに襲われたらひとたまりもありませんね。 その恐い顔に似合わず、かわいい尻尾が印象的でした。  (ほかにも巨大な「熊」のはく製はアンカレジの空港でも見ました。)

 生き物でいえば、印象に残ったのが、マンモスの牙でした。 うまれて初めて本物を見ましたが、非常にきれいな「象牙」で、 長さも3メートル位、太さは自分の腕よりもずっと太いものでした。 それがあのマンモスの牙の特徴であるカールしている訳です。 頭蓋骨につながっていましたが、牙の先から頭までずいぶん遠くにあるような気がしました。

 ほかにも、貴重な物として3万6千年前の、バイソンのミイラの展示があります。 これは故星野道夫さんの著書「アラスカ風のような物語」に発掘の当時のはなしとして、 肉片をシチューにして食べたとあったように思います。
 バイソンのミイラの肉って、ビーフ・ジャーキーとどう違うのかな...なんて思ったり しました。

 ほかにもアラスカの文化や歴史を知るのにも役立つ貴重な資料がたくさんあります。  イヌイットやアラスカ・インディアンのそれぞれの民俗の衣装から猟・漁をするための 道具などがあります。日常品から儀式で使われたであろう物には、色鮮やかなビーズや 刺繍の装飾が施されています。
 これらのほとんどは、自然からの恵みを最大限に利用した物ばかりで、 日本ではいつしか忘れ去られた自然からの贈り物への愛着を感じさせます。 また非常にカラフルな装飾が施されものには自然に対する畏敬、 時には畏怖の念を込めた物ばかりにみえました。

 アラスカの歴史のコーナーでは、ロシアからの買収やゴールドラッシュの話し、 そして、太平洋戦争では、アッツ島、キスカ島などが日本の攻撃を受けて、 その当時、島の人たちが疎開している様子なども紹介してあります。  ゴールドラッシュのところでは、金塊や宝石類などアラスカで採掘されたもの 実物を展示してあります。そして、石油のパイプラインなどの紹介もあります。

 一番奥にオーロラの紹介もありました。なぜオーロラは光るのか、 オーロラの色は何といった疑問に答えてくれる展示でした。

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星野道夫さん

 今回アラスカへ行く直前に買った本があります。 前から読みたいなぁと思っていた故星野道夫さんの作品です。 広島のフタバ・メガの本屋さんで見つけた1冊が 「アラスカ風のような物語」(小学館文庫)です。

  書評があるので参考にしてみてください。
  http://www.sakuhokusha.co.jp/shohyo/21arasuka.htm

星野道夫さんは、「地球交響曲(ガイヤシンフォニー)第三番」でも紹介された方 ですのでご存じの方もいらっしゃると思います。アラスカ大学で自然科学を学びながら、 アラスカの自然写真家としても非常に有名です。

  星野さん自身のことに関しては「地球の自転軸を星野道夫に傾ける」ホームページ
  http://www.age.ne.jp/x/toriumi/hoshino/h_cont.htm
  を参考にしてください。

 星野さんはカメラマンでありながら、この作品の中で私には、 「地球人として自然に生きる哲学者」のような感じに見えました。  アラスカの原野の中でただ独り数ヶ月もカリブーの群れを待ち続ける... そしてやって来るシャッターチャンス。 この瞬間、彼が手にしているのは文明の機器=カメラでなく、 「神の目」ではなかろうか...彼の写真に秘められたメッセージを見て、 そんな感じすら覚えました。
 やがて、1996年8月8日ロシアのカムチャッカで熊に襲われて 43才で亡くなられるまで、自然をずっと見続けて、最後の場所も 「弱肉強食」というルールのみが支配している自然で亡くなられたことは、 ある意味では星野さんの望む姿だったのではないだろうかと思います。

 この本の中で、星野さんがアラスカへ行くきっかけとなったエピソードとして、 アラスカを紹介した古い本の中の一間の写真に写っていたイヌイットの村らしき ところの村長さんへ手紙を出して、その後、その村から返事が帰ってくる。 そして、アラスカへ行ってみると、ただの原野ではなく、どこまでも果てしなく、 点々と人の営みがあり、それぞれ悲しみや苦しみそして喜びがあること。 そんなつながりが地球全体にあることを紹介しています。  ふだん生活では気にすることすらなかったことを、この本では私に教えてくれました。

  星野道夫世界展
  http://www.asahi.com/hoshino/index.html

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オーロラ観察...その3

 2000.2.6

 前日というか早朝午前2時ごろまで、スキー場のある山でオーロラを見ていると 徐々に雲が広がって来ました。そして、このは日は朝からどんよりと雲があり、 今夜はオーロラはダメかななんて思っていました。
 昼にアラスカ大学の博物館を見学している頃から、徐々に雲が晴れ、 夕方にはすっかり雲がなくってきました。 しかし、買い物やらなにらやっているうちに遅くなってしまい、 さらに、夜にフェアバンクス空港にいったりしているうちに、23時を過ぎてしまいました。

 空港の周辺をうろうろしているちになんと頭上に明るいオーロラが現れました。
 今夜は暗いところへ行くのは時間的に無理かな...と思い、昼にいった アラスカ大学へ行ってみる事にしました。 そういえば、昨年(1999年)アイスホッケーの練習を見に大学のスケートリンクへ 行った事を思い出しました。街灯もそんなに多くなく、もしかしたら、きれいに見えるかも。 空港から大学まではそんなに遠くないので、すぐに到着しました。  場所としては予想どおり、高台にあるために、町の光の影響もすくなく、 構内の街灯も少なく、(といっても防犯上のこともあり、最低限の街路灯はあります。) オーロラも見えそうでした。

 一番西にある駐車場が良さそうでしたので、ここへ止めて見ました。 時計は23時30分でした。まだまだ、オーロラはゆらゆらとうごめいていました。 カメラをセットして、オーロラをながめます。頭の上に出たかと思うと東の空にでたりと、 でもカメラ写りのよいオーロラはなかなかでません。
 そうこうしているうちに24時30分頃になり、オーロラは収まってきました。 駐車場で次のオーロラの出現を待つ間、日本へオーロラの様子を携帯電話でレポートしたり カメラの調子をみたりしながら、しばらく待っても、再びあらわれる気配がなさそうなので、 この夜は引き上げることにしました。

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アラスカ(アメリカ)の楽しみ

 やはり、私のアメリカに行っての一番の楽しみは、 「チェリー(さくらんぼ)味のコーラ」です。  今年は、「チェリー・コーク」、「チェリー・ペプシ」、 そして「ドクター・ペッパー」の全部にチャレンジしました。 特に「ドクター・ペッパー」はレギュラー味とダイエット味の 2種類あったので、合計4種類にチャレンジしました。 もちろん、「チェリー・コーク」の方はコカコーラ社の 「チェリー・ペプシ」はペプシ社の製品です。

 めちゃめちゃ空気が乾燥していたためノドが乾くなぁと 思いながら、ついつい飲みすぎてしまいました。  ふたができるので、ペットボトルを選んでいたのですが、 ペットボトルはサイズも大きく、これが災いしてしまいました。

 とうとう飲み過ぎてしまい、どうなったかと言うと、 お腹を壊すまでにはなりませんでしたが、 あの妙な甘い味に飽きてしまいました。  私にとっては、これは珍しい事です。「砂糖水」 (ジュースのこと)はもういらない....なんて感じになってしまいました。  さらには、というか、とうとう「二酸化炭素と砂糖の水溶液」 (なんだか複雑な表現になってきたなぁ...炭酸ジュースか)はやめにして 「無機物入りH2O」(ミネラルウオーターか)ばかり飲んでいました。

 またいずれ、チェリー味にはお目にかかると思いますが、 その時には、水に薄めてから飲むかなぁ...なんて思っています。(笑)

 まぁ来年までのお楽しみにとっておこうかな


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タイガの森

 2000.2.7

 フェアバンクスはアラスカのちょうど中央、内陸部になります。 高校の地理で習う気候では「タイガ気候」に属します。 冬期は氷点下の日が続き、短いなつ、針葉樹の森が広がります。 どこまで広がっているかと言うと、それこそ、 果てしなく広がっている感じです。

 フェアバンクス3日めの朝は、快晴。青い空は抜けるような感じ、 今日は、のんびり森林浴ドライブでもと思い、地図を片手に気ままにドライブ。  街から10分も進まないうちにモミノキやトウヒの沢山はえるタイガの森になります。 道は片側1車線の古いハイウエイです。そこから脇道に入ると、 本当にサンタクロースがトナカイとともに隠れていそうな森です。  また、すこし先へ進むとこんどは、白樺の森です。こういう感じで 木の種類が交互に続く森となります。

 今日のドライブの目的は、オーロラをのんびりと観察できるところを探す というのもあります。  スキー場はそれなりに良いのですが、とりあえず入場料が必要なこと、 オーロラツアーのコースになっている「観光地」であり、静かに観ることができない 観光客のせいで、自分自信どうも落ち着いてオーロラを観察するという感じの場所ではないので、 静かに見れる場所を探したと言うわけです。

 約2時間、森の中を行ったり来たり、そうこうしているうちになかなか 良い場所を見つけました。

 それから、さらに森の中の道を進みましたが、ひとつ気がついたことがあります。  「道がある」という事です。  道にはところどころ郵便受けもあります。つまり私にとって未開の森だと 思っていたところは、実は点々と人の家と生活をつないでいる道なのです。 森の中には、マッチ箱の家とまではいいませんが、小さな木造の三角屋根の 家が木々に挟まれるように沢山あります。街の家とは明らかに違う、 木造のかわいい家です。  その道は森の中をずーっとどこまでもつながっていました。ずーっと人の 暮らしもつなっがっているのかな....そう思いながら、日も暮れてきたので、 来た道を引き返しました。

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マッキンリー山

 2000.2.7

 アメリカ合衆国で一番高い山はマッキンリー山です。 標高6,194mのその山はフェアバンクスから見ると、平原のかなたに、 そこだけ飛び出した感じで見えます。

 森のドライブの帰り道、マッキンリー山の良く見える場所まで帰ってきました。 この場所は1998年のツアーの時、スキーへ行く途中にこの場所でマッキンリー山をちょっと だけ見た場所でもあります。2年前のその時には時間もなく、思うような写真が撮れなかったのですが、 今回はゆっくりと夕暮れのマッキンリーを楽しむことができました。

 夕闇のなかにシルエットが浮かび上がっている姿は、空と大地、 ピーンと張りつめた冷たい空気とアラスカの大きさを感じさせます。 またちょうど三日月がその上にでている景色は今回の旅の中でも、 オーロラ以外に一番印象の深い景色でした。  月の上には、木星土星も見えています。こんなにすばらしい夕暮れの風景は、 そうめったに見れるものではありません。

 今夜も再びすばらしいオーロラに出会えるかも...期待はどんどん膨らみます。

 マッキンリー山は、日本人にとっては、「植村直己さんの眠る場所」 ということで有名かもしれません。1984年2月12日、植村直己さんの43歳の誕生日のこの日、 北アメリカ大陸最高峰のマッキンリーにたった一人で登頂しました。 しかし、山頂に日の丸を残し、消息を絶ってしまわれ、その後の捜索で装備は発見されましたが、 彼はそのまま戻らぬ人となってしまいました。

 冒険という方法で自然を愛した植村さんの最後の場所になってしまったこの山は、 フェアバンクス〜アンカレジの飛行機で上空を飛ぶ事ができます。 飛行機からみるその山の姿は、冬期間はずっと厚い雪に覆われ、生き物を寄せつけない厳しさを感じさせます。

ヲマッキンリー山と月
山の上に見える三日月、そして夕暮れの紅色の空に浮かび上がる、マッキンリーの山のシルエット、 一番下にあるのが、フェアバンクスの街の明かりです。外の気温はマイナス8度くらいですが、 ひんやりとした心地よい空気が目の前に広がっていました。 この写真にははいっていませんが、月の左には木星と土星がいます。
(2000.2.7 カメラ:Pentax Z-1p レンズ:PentaxAFzoom28mm-200m  絞り:F8 シャッター:1/8 フィルム:フジプロビア)

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オーロラ観察...その4

2000.2.7  この日は、昼に見つけておいた自分だけの秘密の場所へ オーロラを見に行きました。  古いハイウエイからそれて200mほど行った森の入り口に、 車をとめる事のできる少し広い所がありました。そのすぐ向こうには、 開閉できる鉄柵らしきものがあり、そこから先は私有地のようなところでした。  この場所からは、300-400m先にキャンプ場や人家などがあり、 あまりにも寂しい場所は危険なので、もしもの事を考えて、街灯の光が少しあるけれど、 この場所に決めました。また、ホテルから20分ほどのところで、近いというのも、考慮に入れました。

 今夜こそは、早めに...と思い、22時にはホテルを出発しました。空は快晴。 オーロラがまちどおしいです。

 ところが、こんな日に限ってオーロラは現れません...オーロラを待つ間、 持参していたPowerBookで、おもむろに現地レポートを書き上げます。とうのもホテルに 帰ってからでは遅くなるので、できるだけオーロラの待ち時間(?)に書こうと思っていました。 日本から携帯に電話がかかって来て、これまで観たオーロラの様子のレポートなどしました。 24時が近付いて来た頃、空を見るとほのかに明るくなって来ました。

 24時のカウントダウンをしながら、目の前のオーロラがぱ〜っと明るくなって来ました。 ひとりでむなしく0を数えたところで、2月8日は私の誕生日でした。(笑)といっても時差が あるので日本時間では2/8の18時になっています。

 目の前のオーロラはどんどん明るく揺れ動いています。日頃の行いに神様が私にプレゼントを 下さったのかなと思いました。  渦をまいたり、うねったり、止まる事を知らないという感じで1時間たってもまだ光っていました。 時計の針も午前3時に近付いた頃ようやくオーロラも薄くなってきたので、そろそろ帰るかなと 片付けましたました。2時間も光っていてくれました。

 街の明かりのある場所、ファーマーズループの交差点へ近付いた時また車の窓の外に 明るいオーロラが出ているではないですか... すぐにハイウエイからファーマーズループへとそれて、カメラをセットします。アーチ状に輝く オーロラが光っていました。またこれも終わりそうにありません。  それでも、1時間程たつと徐々に薄くなって来てので、やっとホテルへ向かうことができました。  今夜のオーロラは、なかなか私を帰してくれませんでした(笑)でも、とってもすてきな、 素晴らしいプレゼントでした。

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アラスカからインターネット

 例によって、私の海外旅行ではPowerBookを使って、現地から現地の プロバイダーを利用して、インターネットアクセスも日課です。  アンネットだけでなく、メールにホームページ作り、いろいろと頑張りました。

 1日の流れで行くと、昼にはうろうろ、デジカメで風景のスナップショット、 夕方にとりあえず、デジカメ画像をPowerBookへ転送、夜オーロラを待ちながら、 日記とホームページを作る、オーロラがたくさん見えた時には、ホテルへ帰ってから作成もあります

 深夜にホテルへ帰ってから、最終的な仕上げをしあます。  画像はGraphiConverterを使用してバッチ処理で20枚ばかりを瞬時に小さいサイズに変更し、 シャープフィルタをかけます  ホームぺージ用の写真をここで選んでおきます

 メールやらレポートやらできたら、おもむろにPowerBookとモデムを持って ホテルのフロントへ行きます。モデムも必要なのは、PwerBook内蔵が14kなので 56kのを持参したと言う訳です。ホテルのフロントのカウンターの上にパソコンを広げます。 ここで電話線を借りてインターネット開始です。

 ホームページに転送して、アンネットにレポート送って、メールをチェックして... あっというまに時間すぎます

 フロントでは毎晩宿直のお兄さんと雑談をしながら、英会話の練習も兼ねての インターネットです。

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ホテルのお話

 フェアバンクスでは、「フェアバンクス・ホテル」(そのまんまじゃぁ〜) という名前のホテルに泊まりました。これは昨年99年たまたまガイドブックで、 安いところ&E-Mial等で予約できる所..みたいな感じで探してみつけた所です。
 昨年99年は予約の時、いろいろ気になる事を質問した所、ていねいに返事を下さって、 実際に行ってみると、従業員も親切でユニークでとても楽しいホテルでした。

 ホテルのつくりは、木造モルタルと言った感じの3階立ての小さなホテルですが、 ダウンタウンのまん中にあって、場所としては、なかなかです。値段の安さが魅力で 1週間でも3万円程度でOKです。部屋は狭いのですが、いたしかかたありません...

 従業員はみな楽しい人ばかりで、なんでも親切に面倒を見てくれます。 私のへたくそな英語でもきちんと応答してくれます。いろいろな話をすることができました。
 昼間はわりと忙しいのですが、夜の宿直は起きていないといけないので、 暇つぶしにみんな苦労しているようです。プレステをやったり、DVDを見たり、 ビデオを見たり...なかなか大変そうでした。
 私も夜はカウンターでインターネットをしたり、ロビーのソファーでだべったりしながら、 宿直の人といろいろな話をする訳です。 たまに、その従業員の友だちもたまにやって来ますが、 そんな人たちとのふれあいもとても楽しいです。 まぁホテルといいながらアットホームな民宿といった雰囲気のところです。

 五つ星のホテルもいいかもしれませんが、カウンターの向こうにすました従業員がいる所より、 多少ボロくても、従業員とだべっていられるホテルが私は好きです。

 今年2000年は、毎晩カンター越しに雑談をしながら、その宿直のお兄さんが 日本語を習っていると言う事で、いつのまにか日本語の授業が始まります。 私が英単語をひらがなで書いて「あいうえお」の表を見ながら、読んで練習です。 例えば、「ほてる」「どあ」とかです。特にひらがなで名前を書いてあげるととても 喜んでいました。
 傑作だったのが「あいうえおかきく....」と読んだあと「あかさたな...」と横に読んで行きました。 ところが「おこそとの」の続きをたまたま彼の友人が見ていました。 この次の2文字の部分にピンと来たようで...その有人は一人でウケていました。 その友人を見て今度は私がウケる...といったような事もありました。
 この2文字に日本語の隠されたメッセージがあるとかないとか....

 来年にはみんな日本語が上手になっていることと思います

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トナカイのステーキ

 今年のアラスカ旅行の目的の一つに、トナカイのステーキを食べると言うのがありました

 どんなのかなぁ...なんて期待をしながら、ホテルで教えてももらったレストランへ行きました。

 トナカイのステーキはThe Pump House というレストランです。  http://www.pumphouse.com/jindex.htm  (日本語の紹介があります。)

 街からすこし離れた所にあります。外見は木造の小屋、という感じで、中に入ってみました。 中は落ち着いた雰囲気の、本当に木造のレストランでした。  どうやら、ゴールドラッシュの時代に建てられた建物のようで、その時代の雰囲気を残しているのも 売り物のようです。

 メニューをもらって探します...目指すトナカイは...ありました。「カリブのステーキ」となっていました。 すかさずこれをオーダーします。 ほかに、お勧めワインがあると紹介されたのですが、車を運転しているので、水だけにしました。

 しばらくまって、いよいよステーキの登場です。

 肉は、アブラ身のないあっさりした味です。においもほととんど、牛に近い感じで、歯ごたえが、 牛と違うかな...という所でした。知らずに出されたら、ビーフステーキかな...という感じです。 でも、とても美味しく焼いてあり、かかっているソースも美味でした。

 他には違う日にこのレストランでタラバガニを食べました。やはりアラスカのカニはとても美味しいです。 タラバガニをボイルしてあって、バタークリームを付けて食べるのですが、これもなかなかの味でした。

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アラスカへのおみやげ

 ホテルの人には、あれやらこれやらお世話になります。またインターネットのために、 特別に電話回線を貸してくれたり、ということで、お土産を持って行きます。

 1998年の旅行では、使い捨てカイロがフェアバンクスではめちゃ高い値段で売られている事を知りました。 日本ではバーゲンの時1,000円で、30個〜40個買えるのに、フェアバンクスでは10ドルで3-4個しか買えません。 10倍近い値段差があります。
 と言う訳で日本で安く手に入れて、持って行きます。寒ければ自分が使用すればいいのです。 余ったらお世話になった人にあげれば、とても喜ばれます。 外袋に日本語で使い方が書いてあっても、ぜんぜん問題ないのです。

 次に昨年1999年喜んでもらったのが、「チャッカマン」です。 あの筒状の先端のある独特のスタイルのライターのことですが、あの形は日本オリジナルのようで、 1999年たまたま見せたところその珍しい形に非常に興味を持っていたので、帰る前にあげました。 どうして、たばこを吸わないながしまがライター類を持っていたか、またの機会に紹介します。
 通常の値段は高いので、「ひゃくえ○ショップ」で買って持って行きました。 やはり今年も喜んでもらえましたが、アラスカにはたばこを吸う人が多いです。 たばこの値段は日本の2倍くらいです。

 おしまいは、「フリスク」です。ミント味のきついキャンディー なのですが、アラスカの冷たい風は 喉が痛くなるので、 のど飴がわりになめていました。 (フリスクはCMで、レストランの厨房で、そのタブレットを 口に入れようとした瞬間、 手が滑って水槽の中の魚が食べて しまい、その強烈な勢いで窓から飛び出していく...とか、 オウムがそれを食べたら「隣の客は...」としゃべるようになる、あれです。)

 ホテルによく見回りに来る(サボリではなさそうです...)警察官と仲良くなりましたが、 その警官にもあげました。
 「一個づつですよ」と注意してさしあげ、それを 口に入れた瞬間、彼は目をグルグルさせていました。 「これは日本のドラッグか?」彼はとっても 驚いていました。

 日本の妙なものは、アメリカでも受けます。

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トナカイのステーキ以外

 トナカイ以外の食事を紹介します

 今回印象の強かった物はというと...期待と違っておいしかったのが、タコベルです
 http://www.tacobell.com/
 数年前、サンフランシスコで食べていた、まぁどちらかと言うとおいしくない代物だったようなのが、 今回久々に食べると...なんと!!記憶違いかなぁ..と思う程おいしい味になっていました。

 昔は、とうもろこし粉を薄く延ばして焼いた皮に、大豆をマズく煮た(いや茹でた..かな)ものを巻いて、 トマトソースかサルサソースか、何かをつけて食べる印象が強かったのですが(このタイプをラザニア風 とでもいうのかな)、現在のメニューは、きざみキャベツたっぷりのあっさりサンドイッチという感じで、 特製のサルサーソースをかけて食べると、ものすごくおいしいです。 もちろん「茹でたマズい大豆...」というイメージは完全に払拭されました。
 おかげで、3度も通いました。特製ソースをちょっとお土産にしてしまいました... タコベルさんごめんなさい。

 やはり、ピザもアメリカの楽しみな味です。 CDサイズの5インチや8インチで2-3ドルといった小さくて安いのから、 大きくてもやっぱり安いのがアメリカの魅力です。

 あるとき8インチサイズを頼みましたが、出されたスパイスを見て驚きです。 タバスコを期待していたのですが、なんと唐辛子の粉...そう日本では一味唐辛子みたいなのが出て来ました。 粒がすこし大きめに刻んでありましたが、ちょっとかけて食べてみると、すごくおいしいのです。

 さっそく日本へのお土産にと、すぐにスーパーで唐辛子の刻んだのを買いました。  (ところが。帰国する前に、この唐辛子がさっそく役に立とうとは、このとき知る由もありません...)

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アメリカのテクノロジー

2000.2.8

 来る日も来る日も夜も寝ないで、昼に寝て、(...笑)そいでもってオーロラはというと 毎晩毎晩あらわれて来る...ということで、ちょっぴりお疲れモードになってしまいました。 私の誕生日だと言うのに、特に外出もせず、ホテルのロビーで休んでいました。
 いつも夜に私の相手をしてくれるお兄さんと、彼の友だちだというひょうきんなお巡りさんと話をしていました  彼等は私に「オーロラの写真を撮っているということだが、どんなカメラを持っているか? デジタルはあるか?」と尋ねるので、「両方と、それからあと一つあるよ」ということで、 チェキを見せてあげました。インスタントカメラです。

 すかさずチェキで1枚パチリ...シュルシュルと出て来た写真を見て「名刺サイズ」ねと説明しました。 値段も50セントくらいというと、アメリカではポラロイドが一般的ですが、 1枚あたりの値段が1/5くらいなのでおどろいていました。 日本で今一番流行っているインスタントカメラが、このチェキというインスタントカメラでした。

 二人は、小さいインスタントカメラを見て、技術開発のオリジナルはアメリカで、 コピーして小さくするのが日本だとか言っていました。 さらに彼等は、Made in Japanで、CDみたいなディスクの小さいのがカートリッジに入っていて、 録音できるのがあるとかないとか、言っているので、次に私のMDを見せました。

 99年のモデルですが、サイズは非常に小さいタイプで、録音できるのを知って、ビックリしていました。 もちろんゆすっても音飛びもなくクリアなサウンドです。ますます彼は驚いていました。 ちなみに、これで私はアラスカのFMラジオを録音していたと言う訳です。この録音したMDはは私の大事な宝物で、 帰国してからもいつも聴いています。

 のんびり過ごした午後でしたが、その後は、お土産のスモークサーモンをホテルで教えてもらったお店に 注文しに行きました。

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オーロラ観察...その5

 2000.2.8

 昼はずっとホテルでのんびりすごしたので、すっかり元気になりました。22時くらいから、ホテルを出発して、また森の入り口のところに行きました。天気は朝から快晴のままで、オーロラの期待は大です。  着いてからオーロラが現れるまでのしばらくの間、PowerBookDuoでメールやら、HTMLやら作ってていました。この日は早めに23時前にオーロラが現れてきました。

 北の方角にある山の向こうに、うっすらとした光があらわれ、ゆっくりと、自分の頭上に広がってきました。光のカーテンは昨日程の明るさではなかったものの、幾重にも幾重にも頭の上にも広がってきました。

 これが消えたかと思うと、今度は東の方から光の筋がゆっくり伸びてきて、上空に大きな光のアーチが現れました。

 今度は南の空を見ていると、白いものがすーっと広がってきました。これもオーロラかな?そうするとアンカレジ上空に現れたものか...とおもっているとちょっと黄色っぽい感じの物がひろがっています。そのまま見続けていると、なんの事はない、雲でした。 フェアバンクスの町の明かりが雲を照らして黄色く見えたのでした。

 最初ごろに現れていた本物のオーロラの方はというと、もう薄くなって消えかけていました。先ほどの雲もどんどん大きくなり、時計を見るともう午前2時近くしばらく待ってもオーロラが現れそうにないので、この日は帰る事にしました。

 これで4晩連続での出現です。こんなに毎日見れて...誕生日のプレゼントまでいただいて、今年の運も使い果たした感じです。(笑)

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サンタクロースに会いました

 2000.2.9  フェアバンクスから15マイル(20キロ)東にNorthPoleという街があります。地図で見るとフェアバンクスのとなり町と言った感じです。

 この町の事を知ったのは、昨年(99年)ホテルの人から、「おもしろ場所があるから行ってごらん。サンタがいるよ。」と教えてもらいました。地図で見るとここの街には、「サンタクロース通り」「聖ニコラス通り」とかサンタさんに関係あるような名前の通りがたくさんあるようです。また、ガイドブックにもサンタのお店があるとか、ないとか...さっそく行ってみる事にしました。

 またまたこの日も昼前まで寝てしまいましたが、ぼちぼちと出かけて行きました。 車で20分もかからないくらいでしたが、ハイウエイを降りてびっくり、街中がクリスマスではないですか... どう言う事かと言うと、街中のあちらこちらに、クリスマスアート風に飾りつけた物がたくさんあります。 道路脇の電柱までこの赤白のテープで飾ってあります。

 そして、そのこの町の御本尊(?)が、サンタクロース・ハウスというギフトショップです。 店の中は年中クリスマス商戦ならぬ、クリスマス・グッズをたくさん売っています。
 また、この店の中にはサンタクロースのおじさん(おじいさん?)がいて、 彼の仕事はこの店のお客さんに愛想を振りまくだけでなく、デスクでペンを取り世界中の子供達へ クリスマスカードを送るべく日夜がんばっているそうです。
 このサンタのおじさんと一緒に写真を撮ってもらったり握手までしてもらいました。 冬はあたたかそうな衣装ですが、夏は厚い苦しいだろうな...なんて余計な事を考えてしまいました。

 この店私が一番驚いたというかあきれたのは、何ケタかの数字が表示された電光掲示板があるのです。 刻々と数字が変化して行きます。良く見ると、なんとそれは「クリスマスまであと何日何時間何分何秒」 というのが表示されていました。

 私が見た時には2月9日ですが、「あと318日と8時間と58分04.8秒」となっていました。 (地球最後の日まであと300日じゃないですけど、ふとアニメの1シーンを思い出しました...笑) しかし、コンマ秒まであるのも、徹底しているなぁ...って感じです。 クリスマスをこよなく愛する人たちの姿が目に浮かんできます。

これは、NorthPoleにあるサンタクロースハウスの
ラジオCM です。現地でMD録音したものをAiff→MP3に変換しました MP3の再生方法で聞いて下さい。プラグインがあれば、それで再生します。

ほのぼの〜した曲(BGM)と、サンタクロースハウスがどんなお店か 営業時間そして2月のクリアランスセールを1分で紹介しています。 (これが聞き取れれば、私より英語力は上です!!)

santa-card.gif NorthPoleのサンタクロースへの手紙は
Letters To Santa Claus
 Letters To The North Pole!
  http://www.santa-holidays.com/kidz.html
ただし、kids only となっています

左はサンタクロースハウスでサンタさんから頂いた直筆サイン入りの名刺です。

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犬ゾリの話し...1

2000.2.10

 2000年は暖かい日が続いたおかげで、ワンちゃん達もおおはしゃぎでした。

 1999年のときは犬ゾリを期待してチェナ温泉まで行ったのですが、マイナス40度よりも 寒いくらいの日が続いたおかげで、ワンちゃん達は命の危険があるとかで、 チェナ温泉の犬ゾリはお休みでした。結局、残念ながらこの時はスノーモービルに乗りました。 おかげで犬を見る事はほとんどなかったです。

 この日、昼前にフェアバンクスを出発して、待望のチェナ温泉へ行きました。 一つは今年はまだ見ていない氷に覆われた白色のアラスカの風景を求めて、 もう一つは、犬ゾリのワンちゃんは元気かな? と思いつつ...距離にして60マイル、時間にして1時間ちょっとのドライブを経てチェナ温泉に着きます。

 チェナ温泉についてみると、期待した樹氷の景色はまったくなく、黒い木々の森があたりに 広がっていました。樹氷を期待していただけに、とても残念でした。 しかし、犬ゾリには気温も快適で大盛況でした!
 犬ゾリのコースに行ってみると、出発まぢかのワンちゃんたちは、 どの犬も今か今かと大騒ぎ「早く行こう」と言わんばかりに、ダッシュをかけようとしています。

 98には実際に犬ゾリにも乗りましたが、ワンちゃんたちはちょっとお疲れモードのような、 だらだらしている一面もありましたが、2000年のワンちゃん達は元気そのものといった感じです。  次から次へと犬ゾリチチームは出発して行きます。10分程してひとまわりして帰ってきますが、 ちょっと休んでまた出発...なかなか忙しい1日のようです。

 それから、その日の夜フェアバンクスまで帰ったあと、市内にあるウエストマークホテルの前では 何かのイベントがあったのか、後片付けか何かでしたが犬ゾリのハスキー犬が沢山ホテルの前に整列 していました。 といっても時刻は22時くらいで、犬達も車に乗せられて帰るところで、一匹づつ車の専用オリ にいれられていました。

 主人に抱えられる犬達はどれも甘えん坊のような感じでした。一匹もって帰りたい気分でした。

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犬ゾリの話し...2

 2000年5月4日20時〜のテレビ番組「アンビリバボー」でアラスカの一村の危機を救った 犬ゾリの話を紹介していました。
 現在この犬ゾリの功績をたたえて、当時のルートをほぼたどりりながら、アンカレジから ノームの町まで犬ゾリレースが行われています。1049マイル(正確には1200マイル)の この犬ゾリレースは「アディタロッド国際犬ゾリレース」と呼ばれて世界最長の犬ゾリのレースが 毎年3月の第1土曜日出発で開かれています。
 テレビではこのレースまで紹介してほしかったなぁ... なんて思いながら、いつ聞いても感動する1924年の話でした。

2000.2.12

 アラスカの犬ゾリといえば、ベーリング海峡に面した街ノームからアンカレジまでの 「アイディタロッド国際犬ぞりレース」が有名ですが、フェバンクスでは 「ユーコン・クエスト(YukonQuest)」とという犬ゾリレースで有名です。
http://www.yukonquest.org/
 このレースはフェアバンクスから東へ東へと進み、チェナ温泉を経由して、国境を抜けてカナダの 「ホワイトホース(WhiteHorse)」という町まで行く1,023マイル(約1,600キロ)の犬ゾリレースです。 約10日かけて、毎日1区間数十マイルづつのタイムを争うものです。

 このユコン・クエストは、1年ごとにスタート地点がホワイトホースと入れ代わります。 つまり、偶数の年にはフェアバンクスから出発して東へ東へ進みゴールがホワイトホースで、 奇数の年にはホワイトホースがスタートで西へ西へと進みゴールがフェアバンクスとなります。

 2000年はフェアバンクスがスタートの年で、町の人もとっても楽しみにしているレースのようで、 地元の人もこのレースの話題で持ちきり、地元の新聞でもクエストの欄まであります。
 この日の朝10時にスタートということで、ホテルの前の川に行ってみると、すでに黒山の人だかりでした。 人をかき分けて前に進むとちょうど最初のチームが出発するところでした。

 気温もそんなに寒くなく、犬達はダッシュの姿勢で、ストッパーが外れるのを今か今かと待っています。 2分間隔で約20チームがスタートして行きます。合図とともにストッパーが外れると、どのチームも ものすごい勢いでスタートして行きました。これから1,023マイルのレースのスタートです。 観光客相手の犬ゾリとは緊張感が全然違いますね。

 ちなみに、スタート地点はホテルの前の川です。なぜ犬ゾリが川からスタートするかと言うと、 冬季に川は固く凍って人が乗っても全然大丈夫なのです。 ということで川はスノーモービル専用の道になっています。車は道路、スノーモービルとソリは川を走るのです。

 スタート地点であるフェアバンクスの町の中を流れるこの川は、チェナ川という川です。 名前のとおりチェナ温泉の方から流れてきています。初日はチェナ温泉の向こうの町を目ざして 「ユーコン・クエスト」の犬ゾリは進んでいきます。 チェナ温泉を過ぎると山を超えて、ドロンズのゴール地点でもあったサークルの町へ進みます。 サークルの町はアラスカ最大の川で、カナダ西部から流れて来るユーコン川に面した町で、 レースはここから ユーコン川をさかのぼって、上流にあるホワイトホースまで行きます。

 ちなみにアラスカのユーコン川は夏季はサケの川釣りのメッカとして世界中のフィッシャーには有名です。

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オーロラ撮影...1

 今回のツアーで準備したカメラやレンズから紹介してみます。  まず、超広角レンズとしてPentax17-28mmF3.5です。これは前年の夏にホタルや流れ星を撮影するために、 そして今回オーロラを撮影するために導入しました。左右180度の広い範囲を一コマに凝縮して写し込みます。 これで、空いっぱいに広がったオーロラもこれでばっちりです。

 さらに明るめの広角レンズとしてSIGMA28mmF1.8です。こちらはいままで28mmはPentax純正の F2.8を使っていましたが、もうすこし明るいレンズを、できればF1.4レベルのしかし50mmでなく28mmで 安いものを...と探して見つけたのが、このレンズです。

 カメラの方は、マニュアルで30秒の設定のできるものということで、PentaxMZ-7を用意しました。 ワイヤレスリモコンやらなにやらついて、スナップにも最適です。あと35mm一眼レフカメラを3台MZ-5、 Z-1pと往年の機械式シャッターのME-Superの4台とデジカメをもって行きました。 オーロラの撮影をする時には常時2台いきました。17mmと28mmそれぞれで撮影するのです。

 さてさて、オーロラの撮影ですが、なにせマイナス40度にもなろうかという場所です。 そんな場所で長時間外気にカメラをさらしておくと、カメラなどが凍ってしまいます。 どんな感じに凍るかというと、「霜」を思い出してください。カメラの表面が霜で覆われてしまうのです。 この霜はレンズの最前面にもついて、星やオーロラがぼけて写ります。

 ちなみに夜露や霜などは、日本でもいつも星を撮影する時には付き物ですので慣れっこです。 対策はカイロをレンズに取り付けます。以前は使い捨てカイロを靴下のまん中に入れて、 それをグルグルとレンズにまいて縛っていました。 しかし、マイナス10度以下になると使い捨てカイロは冷え過ぎて固まってしまいすぐに ダメになってしまうので、火を使うカイロの出番となります。 白金カイロというのがあり、現在これを使用して星やオーロラの撮影に挑んでいます。

 また、カメラのボディも低温になるとバッテリーが非常に消耗するとか、フィルムが固くなって切れたり、 折れたりするということも聞いていますので、このためにもボディにもカイロを取り付けます。 そして、このカイロはベンジンを燃料にしています、これに火をつけるために「チャッカマン」が 必要となるのです。

 これが、アラスカへのおみやげともなる「チャッカマン」というわけです。

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オーロラ撮影...2

 動くオーロラの映像

 今年2000年のオーロラツアーの目標に動くオーロラの映像を作るというものでした。とくに1999年は 一夜しかオーロラを見る事ができず、写真も満足いくものが撮れなっただけに、今年は準備からいろいろ 考えて満足のいく写真を取ろうと頑張りました。

 今までのオーロラ撮影の経験から、フィルムはiso800、絞り2-2.8、露出時間は30秒が画像のクオリティを 維持でき、かつカメラの機能を利用できるというだいたいの目処を立てていました。 さらに動画ともなると相当の枚数を撮影しなければなりません。

 さて、フィルム1本で37枚撮影できます。これを元にして、とりあえずGIFアニメーションで、 動画としてみれるだけのものができるのが、だいたい30コマ程度というのも確かめました。 カメラのシャッターを30秒にセットして、フィルム送りを連写モードにしておきます。 そしてレリーズをシャッターを切ってロックにしておくと、30秒づつのオーロラを撮影できます。 37コマで約18分の様子です。これなら大体動きのつかめるものが撮れそうです。 あとは現地でそれなりのオーロラが出る事を祈るだけです。

 さてさて、前置きが長くなりましたが、オーロラの撮影の様子です。 今年はオーロラが出現するまで車の中で待ったりしたので、それほど撮影開始までカメラを冷やす事が なかったです。空をながめて、オーロラが現れそうだったら、カメラをセットします。
 オーロラが現れたら、何回も見ても今だ興奮状態になってしまいます。「出たぁ!!」とか 「来た来た!!」と独り言を言いながらオーロラの出現に興奮してしまいます。

 興奮しながらでも、カメラの用意をなんとかして待つのですが、今度は、用意ができたはできたで、 写す段になると今度はなかなか難しいものです。薄いのが現れたけど、明るいオーロラになるかどうか、 または薄いままで終わるか。どのあたりにきれいな部分がくるか、といったことを予測しなければなりません。

 連写モードに入るとカメラを動かす事ができません。10コマ目=5分くらいで、薄くなって行くものもあれば、 明るいオーロラになったが、場所がちょっとそれたかなぁ..なんてこともありました。 また、オーロラと思って撮影しているうちに、実はそれは雲だったなんてこともありました。

 毎晩毎晩オーロラが現れて、早々に持参したフィルムを使い果たしてしましました。 iso800のネガフィルム36枚取りを10本買っていったのに、結局現地で3本買い足すほどの数になりました。
 しかし、目的どおりにオーロラがあらわれ、約30コマの連写することができ、動くオーロラの画像も 作る事ができました。映像はすでにお見せしたとおりです。

 なんとか今年の目的を達成した感じです。とはいえ、もう少し美しいオーロラを撮影するために 来年も頑張ろうかな...なんて思っています。

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オーロラの見れない夜に

 2月5.6.7.8日と連続してオーロラが見れましたが、8日の深夜、オーロラ撮影中に現れた雲は みるみる大きくなって行き、9日の早朝以降、嫌な雲がフェアバンクス上空を覆っていました。

 9日10日11日とずっと曇りばかりで、オーロラは見れそうにありません。そんな夜はホテルの ロビーでのんびりと過ごしました。夜勤のお兄さんと日本語教室を開いたり、テレビ番組で、 ビデオで映画を見たりしていました。それまでどちらかと言うと、睡眠不足気味で体力はちょっと低下、 乾燥した冷たい空気でのどと鼻の奥をやられ、苦しい状況が続いていましたが、熱が出るとか、 だるいといった事はなく、事故もなく順調に日程をこなしていました。 といっても体重は帰国してやっぱり2キロぐらい減っていましたが、すぐに元に戻りました。

 夜ホテルで良く見ていたテレビで印象なのは、ローラーダービー(Roller Derby)というスポーツです。 1周100mくらいのトラックに2チーム各5人ずつで、ローラスケート(今はインライン)をはいて回ります。

そして、どちらかのチームの一人でも規程周回をすると勝ちというものなんですが、相手のチームの だれもが前に進まないようにお互い前に進まれないように妨害をするところが観ものとなっています。 ローラースケートだからちょっとド突くと、すっ飛んで行ってしまうのです

 選手はみんな筋肉もりもりのマッチョマンで、トラックを回りながらの妨害のやり合いは、 プロレスさながらの格闘...というか乱闘をするのです。トラック上プロレスみたいな感じでルールが あってないようで、全員で乱闘をしているシーンは見ている側も興奮します。  みんな必死に乱闘をしている中、上手に騒ぎから抜けでた人が、こっそりゴールするというのが だいたいのパターンですが、この様子がとっても愉快です。 でも、レフリーもいつのまにか乱闘に巻き込まれたり、全治4週間の怪我だとか、 最悪の骨折も日常茶飯事なチョー過激なスポーツです

●yahoo.comのローラーダービーのカテゴリ
http://dir.yahoo.com/Recreation/Sports/Skating/Roller_Skating/Roller_Derby/
●サンフランシスコ周辺で活動しているBayCityBombersのホームページ
http://www.baycitybombers.com/
●BayCityBombersのリアルオーディオ映像もあるサイト
http://www.bcbtv.com/
です。

 ビデオでは、あるコメディ作品を見たのですが、これは私の英語力では、全然歯がたちませんでいした。  他にプラトーンも見ました。チャーリーシーン出演のベトナム戦争の映画です。こちらは会話も少なく、 かつて何度も見た作品でしたが、字幕なしで見たのはもちろん初めてです。 とはいえ、だいたいの台詞は覚えているので、問題なくみれるのですが、これを見ながら戦争や平和の ことをお兄さんと話しました。こうしてアラスカでオーロラがみれるのも平和な世界がなければ不可能です。 ついつい平和を当たり前と感じてしまっている中で、このような映画を見ることで平和の必要性を強く 実感しました。

 また、知り合いになったユニークな警察官がオフタイムによくホテルに遊びにきます。ある夜彼に 「腰にさがっている黒いケースはピストルですか?」と聞くと、そのピストルを見せてくれました。 「触りたい」というと、弾を外して、慎重に何度も弾がない事を確認して私に差し出してくれました。 38口径だったと思いますが、ずしりとした感じでした。

 以前サンフランシスコの射撃訓練場で22口径、ワルサーP38、44マグナム、ライフル、ショットガン、 いろいろ撃ちまくったのですが、やはり実務で使われているのピストルはちょっと違った雰囲気でした。  でも一介の旅行者にピストルをさわらしてくれるなんて、日本で警察官と仲良しになってもこんなことは させてくれないと思うと、やっぱりアラスカはのんびりしたところだなと思います。

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唐辛子と核兵器

 夜勤のお兄さんは、いつも夜食にレンジでチンするだけで食べれる、ハンバーグ、ウインナーと ベジタブルのセットを食べています。カウンターで話しながら、とっても美味しそうにみえました。

 ちょこっと私の食事の話を...
 私の食事はレストランやタコス、ピザ、バーガーも食べましたが、スーパーでサラダとポテトとか 買ってホテルに帰って食べる事も多かったです。そういった食生活だったのですが、ある時スーパーの 中華のテイクアウトコーナーで、みた目が美味しそうな、そう..私にはカレーに見えたのですが、 値段も$4だったので、これを買いました。

 ところが、滅多に私がやらない事をしてしまいました。 ひとくち食べて、「おおおお....」ふたくち目を食べたところで、でそれ以上たべることを諦めました。 実は黄色いただの....イヤ異常かもしれない「テリヤキチキンどんぶり」だったのです。 見た目は黄色いカレーの雰囲気でしたが、砂糖ぶちこみの甘ったるいチキンをライスにかけてあったのです。 良く考えると、日本のようなカレーがある訳でなく、ちゃんと「TERIYAKI」と表示してあったにも かかわらず、うっかりしてしまいました。

 数年越しの私の夢?であった私の食べれないもの発見して、うれしいやら、くやしいやら...(笑)

 しかし、ちょっと考えて、あることを思い付きました。先日お土産にと買った「唐辛子」を かけて食べる事です。さっそく包んで持って帰りました。

 夜になって、彼がレンジでチンしているのを見て、夕方の残り物を思い出しました。 さっそく唐辛子をかけてレンジでチンしてもらい食べることができました。

 ここで、電子レンジの話題になり、日本では電子レンジのこと「チン」というあるいは、あたためる 事を「チンする」ということを説明しました。ちなみにアメリカでは「マイクロ・ウエーブ」といいます。  玉子やソーセージをチンすると、爆発するとか、そんな話しをしながら、ここからは彼の ジョークだと思いますが、電子レンジは別名「ヌーク」とも言うと聞きました。 つまり「ヌークリア・ウェポン」核兵器の事だそうです。

 なぜ、核兵器かと言うと、家で飼っているペットの犬や猫をシャンプーして、そのあと乾かす時に、 電子レンジにペットを入れてチンするのだそうです。あたたまって濡れた毛が乾くと思いきや... そこは核兵器の炸裂さながらのおぞましい光景が見れるのだそうです。
 私がこれはアメリカだけでなく日本でも良く聞く話だと説明すると「この家庭用ヌークを本当に ヌークとして利用する人はワールドワイドに存在する」と言って笑わしてくれました。

 そんな話をしながら、テリヤキ・チキンは唐辛子をいれたら、なんとかちょうど良い味になり、 全部きれいに頂く事ができました。

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アラスカのお土産

 旅行で頭がいたいのが日本へ買って帰るお土産です。アラスカらしいもの... というのがなかなかなく、どれにしようかなぁとおもいながら考えています。
 「アラスカへ行きましたクッキー」みたいのはないし「アラスカまんじゅう」 などもあるわけないし...ということで、私のお菓子で安い定番といえばチョコレートです。

 でも、アメリカでけっして高いチョコレートを買ってはいけません。 なぜなら高級感をだそうとするためにチョコレートに入れるには妙な味や触感の キャンディやキャラメルのようなものが入っていて、さらにシナモンやハッカの味などをつけて、 チョコレートの味や風味を台無しにしているものを良く見かけます。

 このような一見「高級そうなチョコレート」が美味しいという話しを聞いた事が ないというか、それどころか「嫌い」とか「マズい」という意見の人が多いので、 このような高価なチョコレートを買うようなことは絶対しません。

 というわけで、大勢の人に喜んでもらえるのが実はスーパーで安く売っている「板チョコ」です。 これは食べてみるとわかるのですが、程よい甘さと、あっさりとした風味、つまり美味しいのです。 また、ピーナッツのチップがまぜてあったりしてもくどくなく、好評です。 板チョコがまずお土産の候補となります。
 マカダミアナッツチョコもイマイチという意見も良く聞きますので、これも注意が必要ですが、 アラスカではあまり見かけないようですので、ピーナッツ入りあたりが無難ではないかと思います。

 それからアラスカの大地に夏のあいだに生えるグランベリーやブラウンベリーなど アラスカ産の果実から作られたのジャムです。これも素朴な味で私は大好きです。 ビンに入ってそんなに高価ではないので、買いやすいです。

 次に、アラスカというと「サケ」つまり「サーモン」もとってもおしいです。 生きたままをもって帰るわけにいきません。そこで保存食となっているサケを思い浮かべます。 ちなみに塩鮭は個人的に塩辛いのであまり好きではないのですが、 うまいぐあいに、アラスカには塩鮭よりもっとおいしいサケの保存食があります。 薫製のサケ、「スモーク・サーモン」です。

 サケにもいろいろあって、日本では紅鮭(ピンクサーモン)が多いですが、 アラスカでは紅鮭よりおいしいキングサーモンが非常に好まれています。 キングサーモンは日本では「マスノスケ」とよばれ、あまりメジャーではないですが、 アラスカではステーキや薫製はこのキングサーモンでないとダメという人もいるようようです。 アラスカを流れるユーコン河のサケのフィッシングは有名で、世界中から、 夏にここへサケを釣りに行く人が絶えません。

 スモークサーモンは98年にはアンカレジで日本人の経営するサーモンショップ「やまや」で、 はじめてその美味しさを知りました。99年には同じくアンカレジの店ですが、「やまや」よりすこし安い サーモンショップ「アラスカ・ソーセージ」という名前の店に連れて行ってもらい、スモークサーモンを 買いました。

 2000年はフェアバンクス市内においしく、安いスモークサーモンのお店がないかホテルで聞いたところ、 良いお店を教えてもらいました。値段もアンカレジの店より2割安い値段で、いままでのより美味しい スモークサーモンを買うことができました。
 フェアバンクスの街の南よりにあるこの店は「サンタ・スモーク・ハウス」という名前の木造の工場で、 その事務所で販売しているといった感じでしたが、味見もでき、ちょっと食べてみると非常に美味しかったです。

 火曜日に20パック程予約した時には、受付の人が忙しそうで、愛想が悪かったのですが、 金曜日に取りにいった時は、機嫌もよさそうでお金を払ったらとっても愛想がよかったです。
 他にもトナカイの薫製とかありましたが、いまいちだったので買うのはやめました。

ArcticAnimal.gif 「北極動物達の切手」(33セント×15=4.95ドル)
 アラスカらしい切手で、私はとっても気に入っています。2000年2月にはまだまフェアバンクス郵便局には 沢山ありました。ずーっと定番で残ってほしい切手です。ちなみに1999年12月にハワイへ行った知人がホノルルの で同じものを買って来てくれました。=ハワイでも売っているアメリカ定番の切手のようです。
Arctic Hare
Arctic Fox
Snowy Owl
Polor Bear
Gray Wolf

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アラスカ最後の日

2000.2.12  2月12日はいよいよアラスカ最後の日となりました。  ちょうど一週間前の金曜日の夕方フェアバンクスに着いた時には、オーロラが見れるか どうかとっても心配でしたが、存分にオーロラを見て満足の旅となりました。

 午前中までに荷物を片付け、スーツケースに全部詰めて、ホテルをチェックアウトしました。 といっても、そのスーツケースはレンタカーのトランクに入れたとうだけで、 やっぱりホテルのロビーでだらだらと時間を潰していました。お土産もしっかり買ったし、 食べるものも、見るものも満足、あとは旅立つだけという感じでのんびりと1日を過ごしました。

 午前中はユーコン・クエスト犬ゾリレースのスタートを見に行き、昼からはロビーでおしゃべり。 知り合いになった警官がやって来ました。私の日程の最後の日ということで、さよならを言いに来て くれました。ついでに、私が数日前にフェアバンクス市警のワッペン(パッチ)が欲しいと冗談で 言ったののですが、なんと本当にワッペンを持って来てくれました。 そんな感じでのんびりと午後を過ごして日が暮れて来ました。それまで曇りの日が3日程続いたのですが、 天気が少しづつ回復して来ました。  

 夜になり、まず19時すぎにレンタルの携帯電話を返却に行きました。最初に預けた金額から使用料を 引いた残りを返してくれました。意外にも沢山返って来ました。  実際、緊急自体は発生せず、そのような理由で電話をかけることはなく、オーロラを見ながら日本へ 状況報告をちょっとだけで、他にはほとんど電話かけることはなかったです。 日本からの着信はボチボチとありましたが、これは料金には入っていなかったようです。

 その次は帰りの飛行機のチェックインです。時計の針は20時ちょうどになりました。
 帰りの飛行機は実際には25時出発のという便なのですが、深夜に飛ぶ訳ですから、 オーロラが出るかもしれないので見のがす手はありません。飛行機はフェアバンクスから シアトル直行便です。つまり東(正確には南東)に向かって飛ぶので、北の空をみれる進行方向の右、 つまりA列ねらいです。

 出発時間の5時間も前にチェックインを受付けてくれるかどうか心配でしたが行ってみる事にしました。 というのも、すこし前の日曜日、22時前にチェックインしたときには、すでにA列は全部うまっていた という状況を聞いたからです。

 チェックインカウンターにはまだ、数名の客しかいません。駄目もとでチェクインを申し出てみると、 なんとOK。さっそく荷物をカウンターに出すと、32kgの規程重量を9キロオーバー、 しかもこのまま乗せるのであれば、追加料金が必要とのこと。何か荷物を取り出して規程の32キロにすれば 追加料金はかからないのでどうするのか尋ねられました。  もちろん、スーツケースを開けて軽くすると言いました。チェックインカウンターから少しは離れた 場所で中を開けてゴソゴソしてみると、底の方にいれたジャムのビンが量のわりに重そうです。 これを取り出して機内持ち込みの方のカバンに移して、スーツケースを軽くしてなんとかチェックイン しました。席は予定どおりA列でした。

 ここから本当は飛行場から出てはいけないのですが、まだ5時間もあるので最後のオーロラ観察へ 出発しました。毎晩オーロラを見に行った森の入り口へと向かいました。 22時過ぎに着きましたが、空の星は若干見えるのですが、オーロラのでる気配はありません。 う〜ん残念と思いながら23時まで約1時間ほど待ちました。しかし、とうとうオーロラはあらわれず、 ホテルへ寄って最後のお別れをいい、空港へと向かいました。

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オーロラ観察...その6

2000.2.13

 2月13日午前0時のちょっと前にに空港へ到着しました。 レンタカーの駐車場へ車を止めて外へ出てみると、先ほどまで静かだった空に、 光の筋がうっすらと現れているではないですか!!ちょっと立ち止まって見ていると みるみる明るくなって来ました。最後の夜にもオーロラが出ました。

 しかし、飛行機の出発時間まであとわずかです。やむなく、空港の中に入って出発を待ちます。 「早く飛行機に載って、空から先ほどのオーロラの続きを見たい。」そんな一心で待ちました。
 しばらくすると飛行機の登場が始まり、急いで乗り込みましたが、自分の席に行ってみて驚きました。 なんとファーストクラスの最後の席が7A、壁があってその次は自分の席で8Aです。 目の前の壁と自分の席の間は他の席に比べて少し広く、窓も3枚分を一人で占領できます。 ベストポジションでした。

 飛行機が出発して窓の外の明かりも徐々に下に下になるにつれ、1週間のフェアバンクスの事を いろいろと思い出しながら、「次またこの灯を見れる日までまた頑張ろう....」、 そう思いながら窓の外を見ると先ほどのオーロラは終わっているようでした。

 しかし、東の地平線からなんとなく新たな光の筋が現れているようでした。 時計の針は午前1時を回っています。その光はどんどん明るくなって遂には、大きな光のアーチとなり、 窓いっぱいに見れました。地上で下から眺めるのとは違って、横から眺める感じでみるオーロラの スケールの大きさにただただ驚くといった感じです。  その光が北へ流れて薄くなっていったかと思うと、また次の光のアーチが広がって来て、 また大きなオーロラになります。何時間たってもその光りは途絶える事はありませんでした。

 しかし、窓一杯だったそのアーチも、いつしか小さくなってきました。飛行機は南東へ南東へと進み オーロラの出現する地点から一歩づつ確実に遠ざかっているのです。 やがて、すこし向こうに都市と思える街の灯が見えて来ました。時計を見ると、 ぱっぱりもう少しでシアトルに到着です。

 もうほとんどシアトル上空であるにもかかわらず、北の地平線上にはまだ少しオーロラが見えています。 最後の最後までオーロラを見る事ができました。 そして飛行機は徐々に光度を下げて行き、地平線上にかろうじて見えていたオーロラも見えなくってきました。 そして予定どおりシアトルの街の灯の中へ飛行機は降りて行きました。

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日本へ向けて

2000.2.13

 ゆっくりと高度を下げる飛行機,やがて,視界がシアトルの街の明かりに包まれるころ, とうとうオーロラの光は見えなくなってしまいました。 アラスカ時間で2/13午前4時,シアトルでは同日午前5時,そして日本では同日の22時のことでした。

 シアトルの空港には朝5時半に降り立ちました。ふたたびここで,大阪へ帰る飛行機のチェックインです。 ところが6時半にならないと,国際線のチェックインはできないとのことを聞きました。  それから,飛行機の出発は実は約7時間後の昼12時半なのです。シアトルの街まで遊びに行く程の 時間はないので、このまま空港で飛行機を待つ事にしました。

 とりあえず,1時間ほどあるので,6時前に速い朝食をたべることにしました。 例によってシアトル国際空港の「うどん」と,名物の「クラムチャウダー」を探しました。 「うどん」のあるお店は24時間営業なのかこんな時間でもやっていました。

シアトルへ着いた時には、外は真っ暗だったのですが、空も白みかけだんだん夜明けになっていました。

 そして,ふたたびチェックインカウンターへ向かいました。 シートはもちろん窓側ですが、南側は太陽がまぶしいので避ける,北側はベーリング海峡や カムチャッカ半島が見えるかもしれないので,進行方向右側の窓側を頼みました。 こちらもすんなり取ることができました。

 ところがそのチェックインの時,リュックと手提げカバンを持っているのを係員が見て, どちらか預けて下さいとのこと。 日本を出発するときには問題のなかったスタイルが,帰りではチェックが入ってしまいました。 すでに2個もスーツケースを預けているので,追加料金をとられるかと思ったのですが ,無料とのことで安心しました。 リュックにはクツと例の重いジャムしか入れてないので,こちらを預けました。

 そして,来るときにも寄ったパソコンコーナーへ向かいました。 まだ午前7時なので開いてなく、10時オープンまでの約3時間ちょっとあります。 近くのソファーでアラームを3つかけて寝ました。 オーロラを見るためにフェアバンクス〜シアトル便では全然寝なかったので、 いわゆる徹夜状態なので熟睡しそうで,ちょっと怖かったのです。 といいながら,10時すこし前に目がさめ,結局アラームのお世話にはなりませんでしたが...

 パソコンコーナーで,メールを送ったりして11時になったので、出発ゲートへ向かいました。

 そして,いよいよ,この飛行機で日本へ帰ります。 ところが,今まで見たことのない光景に出くわしました。 なんと全員の手持ちカバンのサイズをチェックしているではないですか。

 私はすでにリュックを預けていたので,この時にはあまり心配ではなかったです。 チェックの方法は、サイズを測るための箱(枠といえばよいかな)の中に入ればOKで, 入らなければ,シートへの持ち込みはできず、再び預けるハメになります。 でも預けるのは無料のようなので,みんな安心しているようです。  私の番になり、「手提げカバンと,さらにビーフジャーキーなどを入れていたビニール袋を 全部その箱に入れろ」といわれましたが,両方入れても大きさはOKでした。 それにしても,持ちこみ荷物のサイズ,ましてやビニール袋までものサイズを られたのは初めてのことでした。

 といいながら,免税品の受け渡しは,さらに進んだ飛行機本体の扉の手前でやっています。 つまり免税品は,持ちこみのサイズの計測に入っていないことになり, これでは,ゲートでやっている「ビニール袋まで入れろ」という指示でサイズを測っていることと 矛盾するではないか...公平なアメリカという私の印象を砕いてくれる場面でした。

 乗り込みの不思議な場面を見た後、順調に飛行機は飛んで行きました。 しかし窓の外は雲.雲.雲...とう状態がずーっと続き,アラスカやベーリング海峡, カムチャッカ半島などほととんど見ることはできませんでした。  途中ふたたび不思議なアナウンスが。なんと予定より30分速い16時ちょうどに大阪へ着くという話です。 2年前にも1時間遅れでシアトルを出発しながら,なぜか定刻に大阪に着いたことを思い出しました。 風なども影響するので,その日の天候によっても違うのかな...などとも思いました。 空の上ではスピード違反なんてものはないと思うので,安全な範囲内で早く着くのはうれしいです。

そして日付変更線を超え2月14日に。

 やがて大阪の関西空港に予告どおりの30分早めに,そして無事に着き, 私のミレニアムなアラスカ旅行も終わりました。

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あとがき

 今年2000年、たった1週間の旅でしたが、98年99年そして2000年と毎回来る度に新たな発見や 驚きを積み重ねことができ、再び思い出の多い旅をする事が出来ました。 あれからもう2ヶ月半も過ぎましたが、今でも毎夜見たオーロラを思い出す事が出来ます。4 また、FMラジオでよく流れていた曲なども思い出の曲となっています。

 オーロラだけでなくアラスカの文化や自然を少しでも勉強できればと思い、噂だけしかしらなかった 星野道男さんの作品をカバンに入れてでかけました。それから、念願のアラスカ大学の自然科学博物館で のいろいろな展示の見学、トナカイのステーキやサンタクロース・ハウスなど99年にできなかった事。

 どこまでも続くタイガの森の中をのんびりドライブしたこともありました。 しかしどこまで続く道にそって人々の生活があること。この景色を見る時、星野さんのエッセイの中の 一節を思い出しました。(アラスカ風のような物語)
 「こんな地の果てとも思っていた場所にも人の生活があるというあたり前のことだった。 人の暮らし、生きる様の多様性に魅かれていった。どんな民族であれ。どれだけ異なる環境で暮らそうと、 人間はある共通する一点で何も変わらない。それは、だれもがたった一度のかけがえのない一生を 生きるということだ。世界はそのような無数の点で成りたっていることだ」
このような世界観を持ちながら大自然を感じることができればなぁと思います。

 再びアラスカからレポートができる日を楽しみにしています。
2000年5月27日

(おしまい)

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