アラスカの勉強
アラスカの勉強
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ここでは、私が勉強したアラスカに関することを紹介してみたいと思います。
まだまだ資料収集、分析中ですので、ご了承を
- 場所と概要
- 面積(area) 1,560,693平方キロ(日本377,801平方キロ)
- 人口(population) 約66万2千人
アンカレジ(Anchorage) 259,391人
フェアバンクス(Fairbanks) 83,773人
ジュノー(Juneau) 30,189人(州都)
ケチカン(Ketchikan) 13,961人
シトカ(Sitka) 8,681人
(人口は1999年7月1日アラスカ人口センサスによる)
(Population of Alaska by Labor Market Region, Borough and Census Area,1990-1999)
- アラスカの場所(location)
アメリカ大陸の西北端、アメリカ本土48州の北にあるカナダをへだてて、カナダの西にあります。
- 日本とアラスカの距離(distance)
東京〜アンカレジ(Tokyo-Anchorage)まで5,568kmで 東京〜ハワイより550km近いようです。
また、北海道知床岬〜アッツ島(Hokkaido-Attu Isl.)までは約2,100kmです。
北緯71度〜北緯51度で、南北は約2,200km東西は約3,800kmにも及びます。
- 地形(geographicl features)
・二つの山脈とアメリカ最高峰の山、大河
- アラスカは北米大陸の西側を南北に貫くロッキー山脈の北西の端にあたります。
そして北極海側に2,500m級の山が東西に約1,000キロ連なるブルックス山脈。
太平洋側にはアメリカでもっとも高い6,194mのマッキンリー山(デナリ山)をはじめとして、
3,000〜4,000m級の山々がつらなるアラスカ山脈があります。
・全米第3位の川
- アラスカ州には大小3,000以上の川が流れています。
この中でアラスカのふたつの山脈の間をぬうようにユーコン川が流れています。
この川の源はカナダのロッキー山脈で、カナダのユーコン準州から始まり国境を超えて
アラスカ州へ流れ込みます。アラスカを東から西へブルックス山脈とアラスカ山脈の間の
低地をいくつもの川と合流しながら流れた後ベーリング海峡へそそいでいます。
総延長3,600kmの長さは合衆国で3番目で、このうち下流の3000km部分がアラスカを貫いて流れています。
全米1位はミシシッピ川、2位はミズーリ川です。
・海岸
- 北極海沿岸部やベーリング海に面したところは低地が広がり、
アラスカ州だけで約3百万もの大小さまざまな湖の沼があります。
沼地、湿地にもなっているとこもあります。
大平洋岸は、アラスカ山脈の隆起などから、リアス式海岸になっています。
また氷河もあるのでフィヨルド海岸になっているところもあります。
特に南東部のジュノーやシトカ周辺グレイシャー湾には無数の小島、切り立った崖、
その海岸の崖がそのまま1000m以上の山へとつながっているような険しいところが多くあります。
このように複雑な海岸線を持つアラスカ州の海岸線の長さは
約75,600km(47,300 miles ,coast line)もあります。
南西へ長く突き出たアラスカ半島から、さらに南西へ、
つまり日本方面へアリューシャン列島の島々が連なっています。
・気候(climate)
- 大平洋沿岸部は寒帯気候です。主要な場所はアンカレジです。
夏には暖かく雨も降りますが、冬になると雪が降ります。
南東部は西岸海洋性気候でジュノーやシトカの街がある周辺は夏冬とも暖かく
非常にたくさんの雨がふり、深い森を作っています。
アラスカ内陸部はタイガ気候で、フェアバンクスがあります。
夏は暖かく20度くらい、冬は非常に冷え込みマイナス50度にもなることがあります。
雪は少なめですがあまり解けないので、どんどん積もって1mくらいになります。
このタイガ気候の特徴は針葉樹林で、アラスカでは、
トウヒ(えぞ松)が非常にたくさんあります。
そしてシラカバもたくさんあります。
北極海に面したところはツンドラ気候で、樹木はほととんなく、
夏の間小さな花をつける草やコケが生えます。
アラスカのほとんどのところで、春は5月-6月、夏は7月-8月、
秋は9月、冬は10月-翌年3月までという季節ですが、
長い冬があるものの、四季がはっきりしており、夏には新緑が眩しいです。
・アラスカの州の旗(state flag)
- 北斗七星と北極星を表しています。
- アラスカの先住民族の生活(life of The Native American)
- アラスカのネイティブアメリカン(アラスカ・インディアン)
狩猟(hunting)
- アラスカ中央部に住んで、狩猟生活を行い生活している、
カリブー、ムース、熊などを捕まえて生活をしている
家
- 木や動物の毛皮などで家を作って住んでいる。
トーテムポール ()
- トーテムポールというと一般的なインディアン(ネイティブ・アメリカン)のシンボルと
イメージましますが、トーテムポールは、南東アラスカのごく限られた地域だけに限られます。
この地域にいるのはクリンギット族・ハイダ族などの海洋インディアンです。(旅をする木p.94)
- イヌイット(エスキモー)
ウミアック
- 7-8頭のアゴヒゲアザラシの皮で作った伝統的なエスキモーのボートです。
これで銛(もり)を使って捕鯨までできます。
氷の家とは?
- イヌイット(エスキモー)といえば、半球形の氷の家を想像するかもしれないが、
氷の家を作るのはカナダ〜グリーンランド地方の限られた地方だけで、
アラスカのイヌイットは、木や動物の皮などで家を作る。
- 大地と人間の歴史(Histry fo geologic and human)
アジアとアメリカ大陸が陸続き
- 洪積世と呼ばれる紀元前1万8000年ころ(今から約2万年前)、地球の水分は、
氷となって地上のにあったため、海の水がすくなくなっていた。
アジア大陸とアメリカ大陸の間にあるベーリング海も、海底があらわれ陸続きとなり、
ベーリンジア平原とよばれる平原が広がっていた。
このころ、陸づたいに渡っていったのが、古モンゴロイド系狩猟民族で、
アラスカへ渡ったとこで、アメリカ北部をおおっていた氷河によって、
先へはすすめませんでした。
そこに定着していったのがインディアンと呼ばれるネイティブ・アメリカンです。
北米の氷河が融けたことにより、インディアンは南米まで進出していきました。
その中でアラスカにとどまった民族もいました。
これがアラスカのインディアンであるアサバスカン族やクリンギット族です。
北米の氷河とける頃、アジア大陸とアメリカ大陸の間に海が広がっていきました。
アリューシャン列島を島づたいにウミアックとよばれる船で渡っていった
新モンゴロイド系狩猟民族がイヌイット(エスキモー)です。
- 発見の歴史
ロシアの時代(1741〜1867)
- 1741年にロシアの探検家ベーリングの一行は、アジア大陸とアメリカ大陸のあいだに
ベーリング海峡が存在し、アメリカ大陸の再北西端となるアラスカという広大な地を発見しました。
やがてビーバーやラッコの毛皮の取り引きが盛んになると、
毛皮交易の中心地であったシトカは、帝政ロシア支配時代のアメリカ大陸大平洋岸で
一番の都市であり「大平洋のパリ」とまで形容されるほどであった。
当時はサンフランシスコは小さな田舎町、東京もまだ「江戸の都」と
呼ばれる頃であった。(旅をする木p.208)
アメリカの時代へ(1867〜1900)
- 1856年クリミア戦争で英仏同盟にやぶれた帝政ロシアは国内の経済情勢の悪化し、
毛皮の取り引きも低迷しはじめていたアラスカを手放す事を決めた。
毛皮の取引の低迷は単純に捕り過ぎによる毛皮動物の減少によるものです。
1867年、ついにロシアはアリューシャン列島を含むアラスカ全土を720万ドルで
アメリカへ売り渡しました。
その当時のアメリカ合衆国国務長官スワードが決断したこの「買い物」は、
「でかい冷蔵庫」を買ったと世界中からバカにされる始末でした...
ゴールドラッシュの時代(1901〜1920)
- やがて約30年後の1897年にアラスカの国境のすぐ隣カナダのクロンダイク地方で金が発見され、
「クロンダイク・ゴールドラッシュ」が始まります。
この時一獲千金を夢見てこの地方へ渡った者は約35,000人といわれています。
そして、アラスカ東部はゴールドラッシュでわいきました。クロンダイクから
掘り出された金を運び出す港としてジュノーの町も栄えてきました。
次のゴールドラッシュは1898年アラスカの西海外のノームでこの時は約2万人
もの人が金を求めていきました。
アラスカ中部のゴールドラッシュは1902年から、約1万人もの人が集まったと
いわれています。
しかし金が取れたのは最初のうちだけで、 やがて金はあまり採れなくなって
しまいました。このとき金を夢見た者たちの手によってアラスカが開拓され、
世界中に知られるようになっていきました。(アラスカ物語p257)
- 20世紀の歴史
冷戦の中で(1945〜1960)
- やがて20世紀も半ばにさしかかり、第2次世界大戦が終わる頃、東西の冷戦が始まり、
アラスカはアメリカ本土で一番ソ連に近い場所として、軍事上の重要拠点と なります。
この基地となった場所がフェアバンクスです。
1959年1月、アラスカは合衆国49番目の州となりました。州都は海上交通の要所であった
ジュノーとなりました。
自然保護のはじまり(1960)
- 1960年アイゼンハワー大統領は、アメリカに残された最後の手付かずの自然を守るため、
アラスカの北極圏の北西部一帯を「北極圏野生生物保護地」として指定しました。
(風のような物語p.57)(ノーザンライツp.200)
核実験の港(1960)
- 冷戦の緊張が進む中、新たな核実験場を求めていたアメリカ原子力委員会は、
アメリカの都市から一番遠い場所としてアラスカのとある岬を選んだが、
この事がアラスカの住民に知れ渡るにつれ、アラスカ先住民族がアラスカに住み着いて
以来初めての草の根運動へとつながり、計画は中止されました。(旅をする木p.158)
北極圏での油田発券(1968)
- 1968年、北極海に面したプルドー湾で、アメリカ最大の油田が発見 されます。
環境保護か油田開発か議論されましたが、やがて来るオイルショックにより、
この油田が採掘されるようになります。 現在、アメリカの石油の消費量のうち、
アラスカの油田から採られら石油がかなり利用 されています。
フェアバンクス郊外にも北極海から大平洋まで石油を送るパイプラインがあります。
このパイプラインの中を現在でも刻々と石油を送り続けています。
アラスカ先住民族土地請求権解決法の条約締結(1971)
- 原油を輸送するためのパイプラインの建設がはかどらなかったため、
アラスカの土地の所有をはっきりさせるために州政府は1971年に
「アラスカ先住民族土地請求権解決法」を先住民族と締結した。
アラスカの土地を国、州、そしてアラスカ先住民族によりそれぞれ、
60%、30%、10%の取り分でわけることでした。
これによりアラスカ先住民族の土着権を放棄するかわりに
10%の部分約16万平方キロメートルの土地の所有権と10億ドルの保証金を
手に入れた形となった。
しかし、狩猟をおこなうこと価値のないこの土地には税金がかかり、
このお金をどうやって払っていくか問題が山摘みとなっていた。
(風のような物語p.59)
アラスカ国有地自然保護法(1981)
- カーター大統領は約42万平方キロを自然保護地域に指定し、
国立公園、野生生物保護区とし、連邦政府の管理に置く事になりました。
(ノーザンライツp.219)
捕鯨禁止 (アラスカ光と風p.253)
- イヌイット(エスキモー)にとって、鯨漁は食料の確保だけでなく、
リーダーを中心とした村の共同作業として、村人の絆を強め、
神聖な猟であるという意識があった。
しかしながらIWCA(国際捕鯨委員会)の全面捕鯨禁止の強硬なルールが
作られていくなかで、なんとか先住民族の捕鯨の権利だけは確保されたが、
グリーンピース(環境保護団体)などによる捕鯨禁止の圧力はそのまま残っている。
アラスカの先住民族から捕鯨の権利を奪う事は慎重に考えなければならない。
現在
- いろいろな自然破壊をくり返して行くなかで「失った自然は取り返しがつかない」
ということを学んだ人類は、アラスカにもこの法則があてはまる事を、
アラスカの自然が大規模に破壊される前に気がつきました。
軍事上の拠点としての意味が薄らいだ現在、自然観光がアラスカとそこに住む人々の
暮らしの支えとなって行くことは間違い無いでしょう。
現在アラスカの州の人口は約60万人ですが、夏にアラスカを訪れる観光客は
世界中からのべ100万人にもなるとききます。観光客は遊園地や文化施設ではなく、
自然とのふれあいを求めてやってくる人たちです。
より多くの人に、「守るべき自然」について考えるチャンスを与えてくれるところに
なっていくでしょう。
- アラスカの動物(animal in Alaska)
オオカミ(wolf)
- アラスカをイメージする動物として一番にあげられるのは、オオカミでしょう。
しかしながら私達はそのオオカミに対するイメージには、
ヨーロッパのオオカミに対する考えに強く影響を受けています。
つまり「赤づきんちゃん」「三匹の小ブタ」「ピーターとおおかみ」
などに見られるオオカミ像のように、「ずる賢こい、恐い生き物、凶暴、悪魔の化身」
などのイメージがあります。
これに対して、ネイティブ・アメリカンのオオカミに対する考えは、
「神のつかい、賢い、人間を寄せつけない威厳」といったものがあります。
この違いは何でしょうか?
両者の差は、狂犬病にかかった狼は凶暴であるということです。
ヨーロッパには狂犬病におかされたオオカミが多数存在し、オオカミは危険で凶暴であるとみられ、
つぎつぎと殺されていきました。
ヨーロッパからアメリカへ移住していった人は、その認識にもとづき、
アメリカでもオオカミを次々と殺していきました。
しかし、アメリカの狼は狂犬病になってるものは少ないのです。
狂犬病におかされていないオオカミは人を襲ったりはしません。
やがて絶滅寸前になって、アメリカでは人間達のしてきた事の過ちに気がつきました。
アラスカではオオカミは保護動物となっており、近年徐々に数ももとに戻っています。
ワタリガラス(glaven)
- アラスカで沢山見られるカラスはワタリガラスと呼ばれるます。
日本のカラスよりもひとまわり大きなカラスです。
アラスカのインディアンの神話に、カラスが自分達の先祖を創世した
という神話が数多く残されています。
カリブー(calibou)
- 北極圏に住むトナカイの一種です。冬にはカナダのツンドラから
夏にはアラスカの北極圏のツンドラ地帯へ季節移動を行う動物です。
氷のとけた北極圏のツンドラを餌となるコケや草をさがして移動しているのです。
群で移動するその規模は、大きい時には数万頭もの大群が移動していることもあります。
この大群の姿はさながらアフリカの動物の楽園といった感じにも見えます。
ムース(moose)
- 最大のシカの仲間、オオヘラジカともいます。
その大きさは馬よりもひとまわりもふたまわりも大きいです。
角も巨大で1mもの長さ、幅になるものもあります。
フェアバンクス郊外にも多数現れます。
サケ
- サケの中でも、アラスカのユーコン川をのぼってくるサケは
長い距離を泳げるようにたっぷりと栄養がついています。
また川の規模が大きいため、さかのぼるサケの数も数百万匹ともいわれ、
それらが数千キロの遡上をします。
アラスカの人にとって貴重な食料になるだけでなく、肉食の生き物の餌、
そして産卵を終えた後の死体は川に豊かな栄養をもたらしています。
- フェアバンクスという町
- 1年間で220日もオーロラが見える街として日本へ紹介されています。
人口約3万人のこの町は、観光を主にしている街で、冬期のオーロラ観光の他、
夏季にはここからユーコン川へのサケ釣り、マッキンリーの登山ハイキングの
玄関の街でもあります。
市内には24時間営業の大型スーパーマーケットが4箇所もあり、いろいろなお店、
レストラン、銀行、ガソリンスタンド、などなど現代生活をおくには十分に物が揃った街です。
あまり高い建物はなく、せいぜい5-6階の鉄筋コンクリートが一番高いくらいです。
気温は夏は20度、冬はマイナス50度にもなる街です。
夏には緑が広がり、9月の秋には紅葉もみられます。
- フェアバンクスの歴史
- 一獲千金の夢を見て1901年商人バーネットは、ゴールドラッシが
はじまろうとしていたアラスカへやってきた。
彼は1せきの蒸気船をチャーターして金を探している人を相手に
持ってきた物資で商売をしようと考えていた。
ユーコン川を1100kmのぼり、まだ誰も船では行った事のない支流の
タナナ川を300kmさかのぼり、さらにその支流のチェナ川との合流点に
荷物をおろしました。
冬がやってきて、川の水がすくなくなり船が進めなくなってきていたからです。
バーネットはここで、トウヒの木に最初の斧をいれました。
これがフェアバンクスの町のはじまりです。
すぐに川の向こう岸から一人の男が現れました。
彼はイタリア人のフェリックス・ペドロで、この付近には他にも金を
探している人がいることペドロからをききました。
次の夏の1902年とうとうこのペドロが砂金を掘り当てました。
バーネットが開拓していた原野は、またたくまに金の取引をする街に
変身していきました。
1903年には世界中から約1万人もの人が金を求めて集まってきました。
1906年には、フェアバンクスという町になり、バーネットはこの町の
最初の町長となりました。
当時の町の人口は約4万人にもなっていました。
事業の失敗により、1911年に100万ドルの借金をのこしたまま姿を
くらましてしまいました。
このゴールドラッシュにより1903年から1904年にフェアバンクスは
大きく発展していきました。
アラスカ鉄道(アラスカ光と風p.162)
- フェアバンクスとアンカレジ
- 日本人のアラスカ
1839年- 長者丸の漂流で助かった次郎吉が見たアラスカ・シトカの町「ジョン万次郎漂流記」(旅をする木p.88)
1902年- 和田重次郎がフェアバンクスで発見した金鉱の登録申請のためにたった一人で
フェアバンクスからカナダのドーソンまで犬ゾリで走った。
この後フェアバンクスに多くの開拓者がやってきた。このルートが現在の
ユーコンクエストとなっている(アラスカ犬ぞり物語りp.152)
1907年- 宮城県出身のフランク安田(安田恭輔)が飢餓の村を救った話「アラスカ物語」(旅をする木p.191)
彼は1893年アラスカのポイント・バローへたどりり着く。1907年に食料不足や疫病で
滅亡に瀕したエスキモーの一族をポイント・バローから救出し、
彼等一族を率いての移動に成功しユーコン川のほとりにビーバー村を創設する実話
1943年- 第二次世界大戦 キスカ島アッツ島の日本軍との戦い(旅をする木p.143)
1984年- 冒険家、故植村直己さん冬のマッキンリー山で消息を断つ
1980年代- 写真家、故星野道夫さん(1996年逝去)エッセイと写真でアラスカを紹介。
多くの日本人が感銘をうける。
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